李粛(り しゅく)とは、中国の人物で、約5名ほど存在する。
- 李粛 (後漢) : 後漢の官僚。穎川郡[1]の人。呉郡太守・南郡太守を歴任した。呉郡の陸康[2]を孝廉に推挙した[3]。後に南郡の反乱鎮圧に失敗したため、威宗桓帝(劉志)の逆鱗に触れて処刑された[4]。
- 李粛 (後漢末) : 後漢末期の騎都尉。五原郡[5]の人。董卓に仕えて、同郷の呂布を寝返らせる。後に董卓からの冷遇されたことに不満を持ち、呂布とともに王允と組んで董卓を暗殺する。しかし、董卓の女婿の牛輔[6]と李傕[7]・郭汜らの反撃を受けて大敗したため、激怒した呂布によって処刑された。
- 李粛 (孫呉) : 字は偉恭。南陽郡[8]の人。若いころから有能で、特に人物鑑定が得意であった。呉の孫権に仕えて選曹尚書に任命され、人材登用に優れた手腕を示した。後に桂陽郡太守となり、官民の信望を集めた。その後、中央に戻り卿となったが、間もなく逝去した[9]。孟宗の学問の師で、宰相の器に値される人材であると評価された[10]。
- 李粛 (北魏) : 字は彦邕。北魏の官僚。酒癖の悪さで知られた[11]。
- 李粛 (宋) : 字は季雍。宋(北宋)の官僚・文人。東京開封府[12]の人。966年の科挙に及第した。深酒の過度が過ぎて33歳の若さで病没した。著作に『代周顒答北山移文』・『吊幽憂子文』・『病鶏賦』などがあった。