松平 信康(まつだいら のぶやす)とは、新田氏(上野源氏)義光流世良田氏流松平氏(徳川氏/三河源氏)一門と松平姓を与えられた人物。約3名ほど存在する。
- 松平信家 : 別称は信康、通称は源次郎。岡崎城主の世良田清康の次男、松平広忠の弟(生母は華陽院[1])、成誉一笑(僧侶)の兄で、徳川家康の叔父。1540年(天文9年)6月6日、織田信秀(信長の父)が安祥城を攻めると、異母兄・広忠の命で援軍に駆け付けた。しかし、同族の安祥城主・松平長家らとともに戦死した。享年は不詳だが15歳前後と思われる(『御九族記』)。ちなみに甥の家康の名は彼の諱である「信家」と別名の「信康」から採ったものだといわれる。娘は永見貞親に嫁いで、貞武・貞愛・松平秀康(結城秀朝)[2]室を産んだという。
- 徳川信康 : 通称は次郎三郎あるいは岡崎三郎。家康と築山御前(於鶴の方、今川義元の娘で、母方の伯父の瀬名義広(関口親永)の養女となる)との間の長男。織田信長の女婿で、姻戚関係にある重臣で、三河酒井氏の当主の酒井忠次との権力争いによる確執・讒言で自刃した。
- 吉井信康 : 旧華族の上野吉井氏(松平上杉家)の当主の吉井信宝(のぶとみ)の子、高橋徳恵(のりしげ)・岡田信光の兄。