武田 信光(たけだ のぶみつ)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約5名ほど存在する。
- 武田信光 (伊豆守) : 石和信光とも呼ばれる。通称は五郎/石和冠者、幼名は勝千代/龍光丸、法名は光蓮入道、官職は伊豆守。初代当主の武田信義の子、一条忠頼・板垣兼信・逸見有義(万為有義)の弟、黒坂朝信・信忠(高信)・石和信政・一条信長・一宮信隆・早川信平・馬淵信基・円井光経の父。同族の新田義重の娘を娶った。
- 黒坂信光 : 通称は太郎。上記の武田信光・一宮信隆父子の孫・子の黒坂貞隆(貞経)・信経父子の末裔。室町時代に同族の若狭武田氏の当主の武田信重と交戦した武田信満と同人物の説がある。
- 真里谷信光 : おなじく武田信光の後裔で、真里谷氏(上総源氏)の当主の真里谷信政の子、宮原義勝(義克)室の弟。後に安房里見氏の包囲を受けて、大叔父の信応[1]と父とともに自刃して果てた。
- 勝沼信元 : 別名は信光。勝沼信友の子、信厚の兄、信就・信定・信景の父、武田信玄(晴信)の従弟にあたる。後に上杉長尾家の当主の上杉謙信(景虎)の策によって唆されて謀反を企てたため、従兄の信玄が派遣した飯富(山県)昌景によって捕らわれて、処刑された。
- 武田信尭[2] : 別名は信光/信則。信友の子、晴信(信玄)の甥、上記の勝沼信元の従子にあたる。1582年3月に叔父の勝頼が天目山で自決すると、今子桓と謳われた織田信忠(信長の次嫡子、信正の異母弟)の軍勢が甲斐国府中を占領すると父の信友とともに捕らえられて、同月7日に相川河原で処刑された[3]。