常陸武田氏の家紋(武田菱)
武田氏(たけだし)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門で、武田信春の子の信久(市部七郎五郎)を祖とする。常陸国を統治したために常陸武田氏とも呼ばれる。
概要[]
長兄の信満の戦死後に信久は下総国に逃れ、のちに上記の常陸国行方郡高家郷に土着したという。応永年間(1394年 - 1428年)に、信久は高家郷に武田(神明)城を築き、円通寺を建立した。寺宝に武田氏系図がある。支配地を高家郷から武田郷と改称して居所としたが、その城はその後裔の通信が天文2年(1533年)に築城した常陸南方舘(木崎城)[2]と呼称されたと伝わる。嘉吉元年(1441年)夏4月に、『結城の戦い』で、信久は戦功を挙げた。
戦国時代に通信の子の信房の代の永禄9年(1566年)に防衛対策として築城して、信房はこれを常陸南方舘(木崎城)の支城の野友城[3]と呼んでいた。
元亀2年(1571年)に、遠縁筋の桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の鹿島良清とその庶家の烟田忠幹の争いを鉾田で調停した。
天正18年(1590年)に、信房は豊臣秀吉から所領安堵を受けたものの、翌年春2月に常陸太田城にて、秀吉の承諾を得た天敵の藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の当主の佐竹義重・義宣父子によって誘殺されてしまい、これによって常陸武田氏は上記の大掾氏(常陸平氏)の惣領家の大掾清幹を中心とする一門とともに、ついに滅亡した(『南方三十三舘主謀殺事件』)。
生き残った信房の子の輔信はおなじく遠縁の同族の水戸徳川家の当主の徳川光圀(水戸黄門)に仕えた。しかし、彼には嗣子がなく、その婿養子の顕輔・尚徳父子が後を継いで、武芸の師範となり尚徳の婿養子の輔長に伝来して今日に至るという。
歴代君主[]
- 武田信久 : 武田信春の子、信満・穴山満春・下条信継の弟、都留成春・何某(観音寺遠大西堂僧侶)・法弥陀仏(一蓮寺住持)の兄。
- 武田成信
- 武田信俊(信利)
- 武田昌信
- 武田信益 : 信次[4]の兄。
- 武田信親 : 俊房(利房)[5]の兄。
- 武田信治
- 武田通信
- 武田信房 : 勝信(青柳次郎)の兄。
- 武田輔信 : 顕輔の岳父。断絶。