武田 盛信(たけだ もりのぶ)とは、陽成源氏(河内源氏)流の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)の人物。約3名ほど存在する。
- 一宮盛信 : 通称は十郎太郎。一宮信隆の曾孫、政隆[1]の孫、政嗣の子、助政[2]・隆盛の弟。
- 武田盛信 (若狭武田氏) : 若狭武田氏の第6代目の当主の武田元光の子、信豊(若狭武田氏の第7代目の当主)・信実・山県政信の弟、信高(信重)の兄。
- 仁科盛信 : 通称は五郎、別称は信盛[3]/晴清[4]/晴近。武田信玄(晴信)の子、義信(信行)・海野信親(勝重[5])・西保信之・勝頼の異母弟、葛山信貞(義久)の同母兄、安田信清の異母兄、小督姫(玉田院)[6]の父。1582年の信濃国高遠城で、今子桓と謳われた織田信忠(信長の次嫡子)の軍勢を迎え撃った。同時に信忠からの降伏を断固と拒んで、見せしめのために織田の使者の僧侶の耳と鼻を削ぎ落した。それに激怒した信忠の軍勢と激突して、壮絶な戦死を遂げた。享年27。そのため、族子であり外従兄弟である油川信貞が盛信の後継者となり、「仁科信貞」と称した[7]。