
河内氏の家紋(丸に矢尻付き違い矢紋)
河内氏(かわちし/こうちし)は、日本の氏族。武蔵河内氏とも呼ばれる(武蔵源氏)。
陽成源氏(河内源氏)義忠流の経国(義行/経義[1]/経家[2]/経兼)が河内冠者と称して、武蔵国児玉郡[3]を拠点としたことからはじまる。
概要[]
初代の経国は、成人すると讃岐国の国司である藤原経隆(藤原北家)に仕えて、その代理の目代として赴任した。
経国の子の盛経は寿永2年(1183年)に族子の源姓木曾氏(信濃源氏)の当主の木曾義仲に従軍して、加賀国の『篠原の戦い』にて、遠縁筋の平維盛の軍勢と戦って、戦死を遂げた。
盛経の子の盛国(孫太郎)は、寿永2年(1183年)11月の備中国水島で、族父の矢田義清・梁田義長(簗田義良)兄弟に従軍して、平知盛(維盛の叔父)・教経(知盛の従弟)と戦った(『水島の戦い』)。
盛国の子の盛義は、同族の足利氏(下野源氏)一門の畠山泰国に仕えて、代々が源姓畠山氏(武蔵源氏)に仕えて、源姓畠山氏が河内国守護になったことに伴って、本拠地を父祖の地である河内国に移した。しかし、戦国時代に主家の畠山氏が没落すると、河内氏は織田信長に従い、つづいて豊臣秀吉に従った。
慶長20年/元和元年(1615年)に『大坂の陣』では、河内頼貞は豊臣秀頼に従い、おなじく遠縁筋の徳川家康と戦って、戦死を遂げた。こうしてついに河内氏嫡流は滅亡した。
また、おなじく同族で足利氏(下野源氏)一門である越前国守護の斯波氏(奥州源氏)に仕えて、執事の甲斐常治とともに行動を起こした河内広家(盛広・家広父子の後裔)もこの一族である。
歴代当主(河内氏)[]
- 河内経国(義行/経義[1]/経家[2]/経兼/河内冠者)
- 河内盛経(稲沢冠者) : 経国の子、蓮俊(円城寺法印)の兄。
- 河内盛国(孫太郎) : 盛経の子、盛家・経家・経忠の兄。
- 河内盛義 : 盛国の子、盛親・盛仲の兄。
- 河内盛忠
- 河内盛時
- 河内盛兼
- 河内盛頼
- 河内盛氏
- 河内盛高
- 河内盛重
- 河内盛朝
- 河内盛貞(盛員)
- 河内貞行 : 盛貞の子、盛秀[4]・盛宗・盛康の弟、国貞・盛広[5]の兄。
- 河内貞勝
- 河内長貞 : 貞勝の子、慶貞(のりさだ)の兄。
- 河内貞秋(貞顕)
- 河内貞家(順貞)
- 河内貞種(貞胤)
- 河内貞康(貞永) : 貞種の子、貞高の兄。
- 河内家貞 : 貞康の子、貞昌の弟、康照・元貞の兄。
- 河内頼貞
- 河内貞長
野長瀬氏(野長瀬河内家)[]
河内経忠の子の頼忠が大和国吉野郡野長瀬郷[6]に移住したことから、野長瀬氏または野長瀬河内家と称した(大和源氏)。庶家に横矢氏があった。
概要[]
大和国吉野郡野長瀬郷を拠点とした頼忠の近露庄下司任命は、寛喜元年(1229年)3月のことである。承久3年(1221年)の『承久の変』があり、その際して官軍に味方した公家・武家の所領は没収されて、幕府軍に従軍した御家人・地頭に分け与えられた。『承久の変』後の8年目に実施された頼忠の近露庄司の任命は、北条得宗家の信頼が篤い頼忠が乱後の配置変換に関係があると考えられている。
しかし、元弘元年(1331年)の『元弘の乱』に際しては、隣接する楠正成とともに大塔宮・護良親王(後醍醐天皇の皇子)のもとに馳せ参じて、今までの恩顧を受けた北条得宗家に対して反旗を翻したのである。
野長瀬氏は、上記にある大塔宮・護良親王が高野山に向かう途中に、玉置庄司の軍に阻まれて危機に陥ったとき、軍勢を率いて援けたときである。野長瀬氏の軍勢は、護良親王が笠置山を逃れて以来はじめて配下に収めた大軍で、これを機に宮方をいったん離反しかけた十津川氏も再び宮方に従って、本宮奥の院といわれた玉置山衆徒も味方につき、やがて本宮山氏・宇智氏・葛城氏も宮方に味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援基地ができあがった。
大和国と河内国の境目にある千早城が幕府の大軍を迎えて大奮戦をしたことは有名であるが、その奮戦を支えた後方補給を担ったのが、護良親王を奉戴する野長瀬盛忠を惣領家とする野長瀬氏一門らであった。以後、野長瀬氏の代々は南朝方に尽くすことになる。
盛忠の子盛満と盛朝父子はともに左衛門尉の楠正行(正成の長子)に味方して、前述の同族の足利氏(下野源氏)を中心とする北朝方と戦った。正平3年(1357年)8月に、盛朝は湯浅郷の保田宗兼と力を合わせて足利尚冬の軍と阿瀬川で戦った。戦いの直前に、後村上天皇(護良親王の異母弟)から綸旨を賜り、備前国の頭職として勲功を賞されている。また、正平19年(1364年)にも戦功によって備前国岩部郷を賜っている。
正中9年(1392年)南北朝の統一があったが、その後も南朝方は北朝方と戦った。正長元年(1428年)12月に、伊勢国の国司の北畠満雅は小倉宮・実仁親王を奉じて伊勢国阿坂城に挙兵した。これを聞いた野長瀬盛矩(六郎盛睦)はいち早く馳せ参じて満雅とともに戦うも、岩田川阿漕で盛矩・満雅は討死した。
長禄元年(1457年)の赤松氏遺臣による神器奪回による『長禄の変』のときに盛矩の子の盛高は北山宮・尊秀王(後亀山天皇の曾孫、小倉宮・恒敦(実仁)親王の孫、尊義王の子)を擁立して、奥吉野の山岳地帯に潜伏して、十津川にある御座所に隠れた。しかし、そこも赤松氏遺臣に察知されて、野長瀬氏一門・楠氏一門の奮戦もむなしく、尊秀王は深傷を負って、神璽も奪われ、尊秀王は戦傷がもとで死去した。この事変に盛高の弟の盛実と楠木正理はともに戦死を遂げた。そして、南朝方の抵抗もここに終焉した。
このように野長瀬氏は元弘2年(1332年)から長禄元年(1457年)までの125年間で、一族を挙げて南朝方として忠節をつくしたのである。そして、備前国の一部を賜るという空手形を賜ったのみであった。彼らを百年以上もの長きにわたって南朝方に尽くさせた原動力は、大義名分だけであったとしか考えられない。
尊雅王の死によって、野長瀬氏一門は衰退に向かって辿っていった。その後も、野長瀬氏は代々が近露郷に居を定めて、その末裔は室町時代後期まで続いたといわれる。しかし、野長瀬氏の活躍は南朝方の終焉で動向は不詳となった。
歴代当主(野長瀬氏(野長瀬河内家))[]
- 河内経忠 : 盛経の子、盛国・経家の弟。
- 野長瀬頼忠
- 野長瀬盛氏 : 頼忠の子、影忠の兄。
- 野長瀬盛俊 : 盛氏の子、盛時・長俊・師俊(性岩)の兄。
- 野長瀬盛秀
- 野長瀬盛忠 : 盛秀の子、横矢盛衡[7]の兄。
- 野長瀬盛満(盛光)
- 野長瀬盛知
- 野長瀬盛矩(六郎盛睦)
- 野長瀬盛高 : 盛矩の子、盛実[8]の兄。
- 野長瀬盛経
- 野長瀬盛連 : 盛経の子、盛長[9]の兄。
- 野長瀬盛次 : 盛連の子、盛永の兄。
- 野長瀬盛利 : 盛次の子、盛季の弟、盛通(盛道)・盛武の兄。
- 野長瀬盛賢(盛方)
- 野長瀬盛継