渋川義勝の肖像
渋川 義勝(しぶかわ よしかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。官職は相模守。
足利氏(下野源氏)流上野渋川氏(上野源氏)一門で、奥州渋川氏(会津渋川家)の流れを汲むとされる渋川義昌の子で、正室は足利長尾家の当主の長尾憲長の娘。
概要[]
義勝の遠祖は永和年間(1375年~1379年)から下野国小俣城の城主となって以来、義勝の代までに至った。
はじめは惣領家筋にあたる古河足利家(古河公方)の当主の足利義氏の近侍であった。
1572年に上杉長尾家の当主の上杉謙信(景虎[1])の配下で、上野国膳城の城主の善宗次の攻撃を受けるが、遠縁筋の北条伊勢家(相模平氏)の援軍を得て、これを撃退した。勢いに乗じた義勝は追撃して、宗次を討ち取った。さらに膳城を総攻撃して、これを陥落させた。宗次の子の春松丸は家老の斎藤右近の軍勢に護衛されて、近隣にある厩橋城(前橋城)を経て、北方の沼田城にいる謙信を頼った。
後に義勝は上野国の小野姓横山氏流上野由良氏(横瀬氏)の当主の由良成繁に仕えた。
1590年に成繁の命で長尾顕長(憲長)[2]とともに、上記の遠縁筋の北条伊勢家の当主の北条氏政の下に馳せ参じた。
同年3月の豊臣秀吉の東国遠征では、小田原城に籠城したが、秀吉の徹底的な包囲に手が出ずに、7月に小田原城はついに陥落してしまい、氏政とともに義勝は秀吉に降伏した(『小田原征伐』)。
その後、義勝は秀吉の命で所領を召し上げられて、その身柄を秋元長朝[3]に預けられた。以降の義勝による動向は定かではない。