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源 忠頼(みなもと の ただより)とは、陽成源氏河内源氏)流の人物。約4名ほど存在する。

  1. 千鶴丸 (源頼朝の子)[1][2] : 幼名は千鶴丸/春若丸、諱は鎌倉忠頼[2]/頼忠鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝源家)と八重姫/万功御前(伊東祐親の娘)との間の長子、源頼家(第2代目将軍)・貞暁(能寛)・実朝(第3代目将軍)の異母兄。伊豆北条氏時政政子父娘)の陰謀に唆された外祖父の伊東祐親によって誤って殺害された。享年4。頼朝は溺愛した長子の死を嘆き悲しんだ。後に祐親が大庭景親とともに『富士川の戦い』で平維盛に戦わずに勝った頼朝に降伏し、女婿の三浦義澄[3]の嘆願もあって、許された。しかし、時政・政子父娘は祐親が伊豆北条氏(北条得宗家)にとって将来の禍なると恐れたために、改めて頼朝に死を賜るように進言した。そのため、祐親は自害して果てたのである。
  2. 石川忠頼義時流石川氏の当主の石川頼房の孫、忠教の子、政信(源弁)[4]・宗泰[5]の兄、義忠の岳父。
  3. 一条忠頼甲斐一条氏の祖。武田氏常陸源氏/甲斐源氏)の当主の武田信義の子、板垣兼信逸見有義(万為有義)石和信光の兄、甘利行忠[6]の父、行義上条頼安の祖父、頼高(行義の子)の曾祖父、頼行の高祖父、宗信の6世の祖。後に頼朝に警戒されて、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。子の行忠は後を継ぐことができず、従弟の信長[7]が、伯父の忠頼の養子となってその後を継いだ。
  4. 松平忠頼三河松平氏徳川氏/三河源氏)一門の桜井松平家の当主の松平忠吉の子、信吉の弟、忠重・忠直・忠勝・忠久・忠好(ただすみ/ただたか)・忠利の父。従弟で異父兄でもある家広(伯父の忠正の子)の後を継いだ。しかし、母方の族弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれて宴席に参加していた際に、同席していた直参旗本の久米左平次と服部半八の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論して、刃傷沙汰に及んだ。忠頼はこの争いの仲裁に入ったが、逆上した左平次によって刺殺された。享年29。なお、この事件の責任者である水野忠胤と喧嘩の一方の当事者である服部半八は切腹を命じられた。

脚注[]

  1. 薩摩国大隅国の秦姓惟宗氏一門の島津氏の遠祖である島津忠久(惟宗忠康の子、忠広の弟、津々見忠季の兄)は頼朝の落胤、あるいは忠頼(頼忠)の子と自称した(『島津国史』・『島津氏正統系図』および『島津歴代略記』(島津顕彰会))。
  2. 2.0 2.1 陸奥国小野姓横山氏(猪俣氏)一門の中条氏の系統の多田氏(『鬼柳文書』)の庶家である和賀氏とその庶家の本堂氏・鬼柳氏は忠頼(頼忠)の末裔と自称した(『奥南落穂集』)。
  3. 碓井貞光の末裔。
  4. 政忠の父。
  5. 義泰の父。
  6. 甘利氏の祖となる。行忠は、暗殺された父に連座されて、常陸国に流罪されたが、翌年に暗殺された。その後は子の行義が後を継いだ(『甲斐国志』)。
  7. 信光の次男、生母は新田義重の娘。

関連項目[]