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源 成頼(みなもと の しげより/なりより)とは、源氏宇多源氏陽成源氏河内源氏))一門の武将。約4名ほど存在する。

  1. 佐々木成頼宇多天皇の玄孫、敦実親王の曾孫、源雅信の孫、扶義[1]の子、経頼[2]・延尋(僧侶)の兄、義経(章経)宗頼・成経の父。源姓佐々木氏近江源氏)の祖となったが、27歳の若さで早世した。
  2. 土岐成頼 : 法号は宗安入道土岐氏美濃源氏)一門の佐良木光俊の子、佐良木兼頼(兼慶)[3]の兄、政房頼継)・六角頼真[4]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼[5]・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の父。生母は、三河国守護の足利氏下野源氏)一門の一色義遠義政/義枚[6]/饗庭元明)の娘である。美濃国守護代の斎藤利永[7]らに擁立されて、土岐氏惣領家である従父の土岐持益[8]の後を継いだ。
  3. 平賀成頼 : はじめは大井成頼/岩村田成頼/長窪成頼、法号は玄信入道/玄心入道甲斐源氏小笠原氏信濃源氏)一門の信濃大井氏(岩村田氏)の当主の大井康光(岩村田忠孝)[9]の庶長子、忠重忠次長窪貞隆の弟、貞清[10]の兄、大井政勝・平賀清恒の父、政行・政継(政勝の子)の祖父、康勝(政行の子)・政成(政継の子)の曾祖父。鎌倉時代に没落して、途絶えた同族の信濃平賀氏の名跡を継いだという。信濃国佐久郡平賀郷[11]に拠点を定めて、居城の海ノ口城で同族の武田氏常陸源氏/甲斐源氏)の当主の武田信虎[12]信直)と戦った。1ヶ月におよぶ成頼の奮戦で、信虎は撤退せざるを得なくなり、殿軍に嫡子の晴信(後の信玄)に委ねた。その際に成頼は討って出たが、晴信の伏兵に挟撃されて、壮絶な戦死を遂げた(『海ノ口城の戦い』)。江戸時代後期の讃岐国平賀源内白石国倫(国棟)[13])は成頼・清恒父子の後裔と仮冒した。
  4. 吉見成頼吉見氏武蔵源氏)流石見吉見氏(石見源氏)の当主の吉見頼弘の子、頼世の弟、義宗・弘景・宗頼・為貞・成康[14]頼直[15]・弘康・為元の兄、信頼・成廉・頼直・頼成頼興・頼安・宗頼・頼豊・頼貞・頼高・頼元の父。

脚注[]

  1. 読みは「すけよし」。
  2. 清房・尊覚(僧侶)・済延(僧侶)・隆昭(僧侶)・信房の父。
  3. 頼政(慶政)の父、政房の祖父、政重の曾祖父、重頼の高祖父。
  4. 佐々木氏の嫡流の六角氏の当主の六角高頼の養子。
  5. 『列国譜』
  6. 読みは「よしひら」。
  7. 藤原北家利仁流斎藤氏一門。
  8. 光俊の従兄。
  9. 同族の大井政信の婿養子。
  10. 貞重・貞景の父。
  11. 現在の長野県佐久市平賀大字
  12. 読みは「のぶまさ」。
  13. 読みは「くにとも」「くにむね」。
  14. 頼興の父。
  15. 頼宗の父。