
源満仲(兼名王)の肖像
源 満仲・満明・満名(みなもと の みつなか/みつあき/みつな、?[1] - 長徳3年8月27日(997年10月6日))は、平安時代中期の皇族・武将。
官職は中務少輔侍従/左馬助を経て、鎮守府将軍/上総介/常陸介/武蔵守/摂津守/越後守/越前守/下野守/美濃守/信濃守/伊予守/陸奥守。
概要[]
幼名は明王丸、臣籍降下以前の名は、兼明王/兼名王。後に多田満仲と称して、晩年は満慶(まんけい)入道と号する。陽成源氏の祖にあたる。
陽成天皇の孫、元平親王の子、満政(兼正王)・満季・満実・満生(みつなり)・満重(満成)[2]・満快(満扶)(満国[3]・行満(行頼)・行季の父)・満頼[4]・昭子女王[5]の兄、頼光(頼満)・頼親・頼信・頼平(頼季)・頼明・頼貞・頼範(右近衛将監)・頼快(阿闍梨頼尋)・頼賢(源快)の父。生母は京の遊女という[6]。
生涯[]
元平親王の長子として生まれ、成長すると弟たちとともに臣籍降下して、源姓を賜った。
安和2年(969年)に、反藤原北家勢力の筆頭である左大臣の源高明(醍醐天皇の第10皇子)とともに為平親王(村上天皇の第4皇子)を擁立して、皇太子の守平親王(後の円融天皇)を廃嫡する動きがあった。満仲は同母弟の満政とともに、それに加担したが、変心して藤原実頼に密告したために、高明は鎮西地方の大宰府に流罪され、為平親王も出家して隠棲して、子の源憲定(村上源氏)に家督を譲らずを得なかった。
以降から、天皇の傍らに摂政・関白が設置されて、藤原北家の地位は不動となり、繁栄を迎えることになった。密告した満仲も、同母弟の満政とともに実頼によって要職に就き陽成源氏の基盤を築いて、摂津国多田荘[7]を拠点に置いて、多田源氏とも称した。
長徳3年(997年)に逝去し、その遺体は多田院(現在の多田神社)に、丁重に埋葬された。