源 義嗣(みなもと の よしつぐ)とは、陽成源氏(河内源氏)流の人物で、約3名ほど存在する。
- 源義嗣 (賀茂冠者) : 鎌倉義嗣とも呼ばれる。別称は頼次、通称は賀茂冠者。源為義の孫、頼仲の子。従兄弟の義久(頼定)[1]とともに淡路国を拠点にするも、1183年に桓武平氏流伊勢平氏(六波羅氏)の平教経(国盛)の討伐を受けて、討ち取られ、義久は捕虜となり、その後自刃した(『六ヶ度の戦い』)[2]。
- 足利義嗣 : 幼名は鶴若丸。足利氏(下野源氏)流足利将軍家の当主の足利義満の子、友山清師(尊満)・宝幢若丸(冬満)・義持の弟、義教(義宣)・仁和寺法尊(僧侶)・虎山永隆(僧侶)・大覚寺義昭(尊有[3])・梶井義承(僧侶)の兄、嗣俊(鞍谷公方)・一色直明・香厳院梵脩(梵修)・清欽脩山(修山)の父、嗣時(嗣俊の子)の祖父、嗣知の曾祖父。幼少時から父に寵愛されたが、父が逝去すると敵対した異母兄の義持との確執が決定的になり、『上杉禅秀の乱』を引き起こした。しかし、同族の鎌倉足利家(鎌倉公方)の当主の持氏によって、鎮圧された。義嗣自身も兄によって幽閉された挙句に、脱出を目論んだ罪で、兄が派遣した家臣の富樫満成(藤原北家利仁流斎藤氏一門)の手勢によって、暗殺された。享年26。
- 山入義嗣 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)の一門の山入氏義の孫、義盛の子、義遠の弟、弘喜(僧侶)の兄。祖父と父とともに藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の第4代目の当主の佐竹義舜と戦ったが、義舜の謀略によって、一族の小田野義正[4]に捕虜されて、下野国芳賀郡野木郷[5]の覚明院内で、祖父と父と兄の義遠とともに処刑されて、ついに山入氏は滅亡した[6]。