日本通信百科事典
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源 義央(みなもと の よしなか・よしひさ)とは、陽成源氏河内源氏)流の人物。約2名ほど存在する。

  1. 島田義峰 : 別称は「嶋田義央」。新田氏上野源氏)の第8代目の当主の新田義貞の子、義顕義興義宗の異母末弟。父の義貞が晩年に越前国河合郷の豪族・嶋田勘右衛門の娘を側室に迎えて、その間に産まれたのが庶子の義央(別名:島田義峰)である。後に、義央(義峰)は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・於舟に匿われたという。以降の義央の動向は不詳である[1]
  2. 吉良義央足利氏下野源氏)一門の三河吉良氏三河源氏)の当主の吉良義冬の子、東条義叔・東条義孝・東条冬貞・東条冬重・孝証(僧侶)の兄、上杉綱憲・冬義(三郎)の父、上杉義憲(吉憲)・吉良義周・上杉憲孝・上杉勝周・上杉勝延の祖父。高家旗本の地位を持ち、公家のような身なりをして、自ら「麻呂はの~」と呼称した。同時に『忠臣蔵』の悪役として著名で、播磨国赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)と諍いを起こして、江戸城の廊下で長矩のことを「尾張国の氏素性不詳の田舎武士風情が!」と睥睨したことが原因で、激怒した長矩によって額を斬りつけられた。その結果、この報を聞いた徳川将軍家徳川綱吉は激怒して、長矩に切腹を申し渡し、赤穂藩を改易に命じた。途方に暮れた赤穂藩の家老の大石良雄(内蔵助)は、下野して主君を仇を討つべく「義央打倒」の計画を練り、ついに1703年1月30日(元禄15年12月14日)に江戸吉良本屋敷にいた義央を赤穂浪士四十七士を率いて、これを討ち果たした。このときの義央の享年は63であった。大石良雄らは義央の首級を槍に引っ下げ、江戸の人々に見せ回し、泉岳寺にある亡き主君の浅野長矩の墓前に捧げた。長男の上杉綱憲は江戸上杉本屋敷で父の加勢をしようとしたが、同族の畠山氏武蔵源氏)一門で、高家旗本の畠山義寧によって諌められて断念している。義央の系統は上杉吉良家奥州源氏)の当主として、現在の邦憲の代までに至っている。

脚注[]

  1. 『児島高徳と新田一族』(浅田晃彦/群馬出版センター/1993年)より。

関連項目[]

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