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(かん)とは、中国の代表的な名称である[1]

漢水・漢江[]

古来から「漢」という文字は「水の流れていない川」を起源とする形声文字[2]であった。

源流は中国中南部の代表的な長江の支流に属し、現在の陝西省南部~秦嶺山脈の南麓を源流として、湖北省を添えて武漢(漢口)に至るまでの漢江(漢水)を指す。現在でも支流では冬期に断流することがあり、さらに天上の銀河系の「あまのがわ」を「銀河」または「天漢」と呼ばれていた[3]

漢中(郡名・国名)[]

古来から中国西北地方を支配したは漢江の上流地域に漢中郡を設置した[4]。秦が滅ぼされると、その都の咸陽を占領した高祖劉邦が西楚覇王・項羽より、強引に漢中・巴・蜀の地に王として封ぜられ、漢中王(漢王の意)と称した。劉邦は漢中および、その南部の(巴蜀)で勢力を得て、配下の上将軍・韓信率いる漢の精鋭が、楚の項羽との激戦の末にこれを滅ぼして、秦同様に中国の再統一を果たすと、秦に引き続いて漢中郡を設置した。

漢王朝(朝代・朝号)[]

中国を統一した劉邦は、皇帝として即位する際に今までの国号であったをそのまま統一王朝の国号とした。それは劉邦を家祖とする前漢と、新の王莽によって一時的に滅亡するも劉邦の9世の後裔である世祖光武帝劉秀)によって再興された後漢および、光武帝の兄・斉武王の劉縯の後裔である先主劉備が築いた蜀漢などを併せて400余年の王朝として君臨した。

中国の地を意味する「漢」[]

漢王朝400年の事績を踏まえて、「漢」は「神州」「九州」「天下」などと同様に、現在の中国の地を指す代名詞となった。「漢土」とも。同様な言葉に「秦」「」がある[5]

民族名・文化名としての「漢」[]

民族としての「漢民族」は、多くのアジア系[6]民族の混血によって形成された。民族・人種は複雑でアルタイ語族の古代トルコ系ツングース系[7]および、シナ=チベット語族の古代チベット系古代タイ系およびインドシナ語族の越人[8]などのアジア系諸民族が積み重ねて混血を繰り返された結果であり、そのために中国の各地域によって言語と発音が著しく異なるケースが多い。

その「漢民族」を省略して「漢人」「漢族」と呼称され、そして漢字・漢語・漢風などの特定文化をさす「漢」は漢王朝の名に由来している[9]

漢を国号とした歴代王朝[]

漢の国号は皇室である劉氏の姓と密接に結びつき、これ以後も劉姓の王朝によってたびたび使われた。

  1. 前漢(西漢)
  2. 後漢 (古代)(東漢/中漢[10]
  3. 蜀漢/季漢)
  4. 漢 (晋)(西晋)東莱郡惤県の令の劉柏根(劉伯根)と平陽郡の人の劉芒蕩などが前者は前漢の斉悼恵王の劉肥の孫の孝王の劉将閭[11](楊虚侯)の後裔、後者はおなじく趙敬粛王の劉彭祖[12]の後裔と称して、反乱を起こした政権
  5. 趙漢 : トルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族の王朝
  6. 宋漢(劉宋[13]) : 漢王室の末裔と偽称した高祖武帝劉裕の王朝
  7. 夏漢 : 匈奴屠各部鉄弗氏族[14]劉勃(赫連勃々/赫連佛々)[15]が建てた王朝
  8. 晋漢 : 晋漢王の劉康が立てた地方政権
  9. 漢 (隋末) : 漢東王の劉黒闥の政権
  10. 後漢 (五代) : トルコ系突厥沙陀部の王朝
  11. 北漢 : 五代の後漢から分岐したトルコ系突厥沙陀部の王朝
  12. 燕漢桀漢とも呼ばれる。五代の劉守光の政権。
  13. 南漢 : 一説ではアラブ系の王朝[16]
  14. 燕漢 : モンゴル系とツングース系と混合民族である契丹迭刺部耶律(移刺)氏族のの別称(漢姓は劉氏と称した)。
  15. 漢 (明)中期の反乱軍の首領の劉通が樹立した農民蜂起政権

脚注[]

  1. 中国全土の河川名、地域名(郡名/国名)・王朝名・民族名など。
  2. 音は「乾」に通ずる。
  3. 漢の音「乾」に天の意味があることによる。
  4. 「~中」とは、河川流域の盆地をいう命名。
  5. 南北朝時代からモンゴルの元王朝にかけて、華北(主に黄河流域)と華中(長江流域)を区別し、前者のみをさす用法もあった。
  6. 実際は新モンゴロイドと古モンゴロイドの混血。
  7. 広義的にはモンゴル系も含む。
  8. 古代ベトナム系のこと。
  9. 漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である。また、前述の南北朝時代期から元王朝時代にかけて、華北(黄河流域)住民と華中(長江流域)住民を区別し、前者のみをさす用法もあった。
  10. 『後漢書』応劭伝、『蜀書』楊戯伝「季漢輔臣賛」より。
  11. 「劉将盧」とも。哀王の劉襄の次子、文王の劉則の異母弟。
  12. 成祖景帝の第5子。
  13. 劉裕は、の覇王の項羽(項籍)の従父である射陽侯の項纏=項伯・項睢=項猷(妻は劉邦の長女(斉悼恵王の劉肥の同母妹)である)父子あるいは従弟の項明こと劉明項梁の子)、はじめから劉邦に従った項它(項佗)・項襄らの末裔説もあるため、この王朝は単に「」あるいは「項宋」と呼ばれる場合もある(北斉(鮮卑系王朝)の学者・魏収の『魏書』「島夷劉裕伝」)。
  14. 攣鞮氏族の分家で、後に赫連氏族に改称した。
  15. 南匈奴の右賢王・去卑の末裔である。
  16. 『東洋学報』「南漢劉氏の祖先について」(藤田豊八/1916年)2頁〜6頁より。

関連項目[]

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