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王双の肖像

王双の肖像

王双(おうそう、? - 228年)は、の部将。字は子全[1]。「王雙」とも呼ばれる。

概要[]

隴西郡狄道県[2]の人[1]。222年に征南大将軍の曹仁曹操の族弟)に従軍して、の濡須督である朱桓を攻撃したが、大敗したために、捕虜にされて武昌[3]に護送された。

その後、魏と呉が臨時的に和議を結ぶと、その身柄を魏に返還された[4]

228年冬に、大司馬の曹真(曹操の従子)に従い、虎威将軍として長安に駐屯したが[1]蜀漢)の諸葛亮が西方にある陳倉城を攻略するも、守将の郝昭と王生[5]の堅固な籠城で止むなく撤退した。

それを聞いた曹真の命で、蜀漢の追撃を命じられたが、王双は諸葛亮の命を受けた謝雄・龔起の軍勢の反撃を受けて、壮絶な戦死を遂げた[1]

脚注[]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 元本』(『元大徳九路本十七史』)
  2. 現在の甘粛省天水市狄道県、あるいは定西市臨洮県周辺
  3. 現在の湖北省武漢市武昌区
  4. 盧弼の『三国志集解』より。
  5. 王双と同人物説がある。