王叡(おうえい、? - 190年)は、後漢の部将。字は通耀。瑯琊王氏出身。王吉の7世の孫、御史大夫の王駿の6世の孫、大司空の王崇の玄孫、王遵の曾孫、王音の孫、青州刺史の王仁[1]の子、王誼の弟、王典・王融[2]の兄[3]、王某の父。
概要[]
瑯琊郡臨沂県[4]の人。若くして要職を歴任して、荊州刺史となった。しかし、かつての部下の孫堅(呉の烈祖武帝)を「寒門(単家)出身」[5]と見下した態度を見せた。
そのため、190年に王叡は犬猿の仲である武陵郡太守の曹寅に対して、「董卓を討つ前に、まず曹寅を滅ぼしてやる!」と叫んだ。これを恐れた曹寅は逆手にとって光禄大夫の温毅の檄文を偽造して、孫堅に対して「陛下から勅命を渡す。王叡は南陽郡太守・張咨同様に生かすには危険人物とのことだ」と執拗に唆した。
孫堅はこれに忠実に従い、軍勢を動員して、王叡の居城を包囲した。王叡がいる南陽郡あるいは襄陽郡の城壁の前で「勅命により、王叡どのを討伐し誅滅する!」と叫んでを猛攻撃した。これを見た王叡は「わしには落度はない。瓜売り上がりめ(孫堅のこと)に葬られるのが至極残念だ!」と叫んで、金毒を飲んで自決し、城は陥落した[6]。まもなく彼の家族は廬江郡[7]に逃れたという。
蜀漢(蜀)の部将の黄忠は、かつての王叡の配下であった[8]。