王吉像
王吉(おうきつ、生没年不詳)は、前漢後期の政治家。字は子陽。瑯琊王氏出身[1]。秦の部将の王翦の9世の孫、王賁の8世の孫、王離の7世の孫、王元の6世の孫、王頤(王忠/王廷臣)の玄孫、王暉(王楽)の曾孫、王曜(王之曾)の孫、王襲の子、王広の兄、王駿の父、大司空の王崇・王游兄弟の祖父、王遵の曾祖父、王峕・王音[2]兄弟の高祖父、王時・王仁兄弟の6世の祖、王誼・王叡・王典・王融の7世の祖、王祥・王覧兄弟の8世の祖。
概要[]
瑯琊郡皋虞県[3]の人。若いころから『経書』を学んだ。同郡の貢禹とは友人で、巷では「王吉が地位を得たら、貢禹も出仕する」と謳われた。
郡吏から孝廉に推挙されて、郎中となった。以降からも若盧右丞を経て、雲陽県令を歴任した。後に賢良に推挙され昌邑郡の中尉となり、昌邑王の劉賀に仕えた。
後に劉賀が霍光の招聘で、皇位に即いた。その際に劉賀は400人の家臣を引き連れて、道中に狩猟を好むなど行為が多い問題児であった。王吉は郎中令の龔遂と劉賀の学問の師の王式とともに劉賀を諌めたが、彼は王吉の諫言を聴きいれなかった。そのため、霍光らによって劉賀は在位20日で廃位され、400人の家臣は処刑された。ただし、王吉は龔遂と王式とともに刑死を免れた[4]。
後に、益州刺史に昇進するも、病を理由に辞職した。再び登用されて、博士・諫大夫となったが、王吉は劉賀の後を継いだ中宗宣帝(劉詢/劉病已)に対しても諫言を繰り返したが、宣帝に疎まれて、王吉は病を理由に故郷に帰った。
宣帝が逝去して、その太子の劉奭(高宗元帝)が即位すると、勅使を派遣して貢禹と王吉を再登用したが、王吉はすでに老齢であったために、都に向かう途中で病死した。元帝はそれを悼んで、勅使を派遣して弔わせた。
脚注[]
- ↑ 瑯琊王氏は、王離の子の王元(瑯琊王氏の祖)・王威(太原王氏の祖)兄弟を祖として、太原王氏とは同族とする(『新唐書』宰相世系表二中による)。
- ↑ 『新唐書』唐宰相世系表十二中では王仁と同人物とする。
- ↑ 現在の山東省即墨市東北。孫の王遵以降は、本貫を同郡臨沂県(現在の山東省臨沂市蘭山区)に変更された。
- ↑ 昌邑王の近侍のひとりが「われらはまずは霍光らを殺害すべきだったのだ。彼らを斬らなかったばかりにこんな災難に遭ったのだ!」と叫んだという(『漢書』霍光伝)。西嶋定生は、昌邑王の後見人であった郎中令の龔遂・中尉の王吉・学問の師の王式が、昌邑王を諌めたが聞き容れられなかったので、霍光に密告して昌邑王の廃位と近侍400人の処刑を申請したと述べている。