王昌(おうしょう)とは、中国の人物。約5名ほど存在する。
- 王郎 : 別称は王昌。趙郡邯鄲県[1]の人。新~後漢初期の群雄のひとり。もともとは占い師であったが、漢の宗族である劉林[2]と土豪である李育・張参らに担がれて、前漢の統宗成帝(劉驁)の落胤の劉子輿と偽称して、挙兵した。しかし、おなじく漢の宗族である劉秀(後漢の世祖光武帝)の攻撃を受けて、その部将の王覇の軍勢によって、敗死した[3]。
- 王昌 (前漢) : 前漢末の部将。中郎将・中少府・中堅将軍を歴任して、建威侯に封じられた。西域諸国への使者を務め、翟義討伐に従軍した。
- 王昌 (後漢) : 後漢末の部将。愍帝(献帝)の虎賁(近衛兵)のひとり。興平2年(195年)に、皇甫酈[4]が李傕と親交があった侍中の胡邈と言い争いになると、愍帝はその身を案じて皇甫酈を逃亡させた。胡邈の報告を受けた李傕は、皇甫酈を誅殺すべく王昌に追跡を命じた。しかし王昌は、皇甫酈が公正な人物であると判断して、故意にこれを見逃した。
- 王昌 (曹魏) : 字は公伯。魏末~晋(西晋)初期の官僚。王式の兄で、任城威王の曹彰(曹操の第4子)の娘を娶った。
- 允王 : 姓は王、諱は昌。高麗の王。恭愍王(王顓/王祺)の孫、驪興王(王禑)の子。父が重臣の辛旽の外孫で[5]、実権はなく実力者の李成桂(李氏朝鮮の太祖)に抑えられたため、父が李成桂の誅殺を目論んだが、かえって李成桂の『威化島回軍』による、政変で父子揃って廃位されて、弑殺された。享年11。李成桂は允王の族父である恭譲王(王瑤)[6]を擁立した。