王昶(おうちょう)とは、中国の人物で、約3名ほど存在する。
- 王昶 (太原王氏) : 魏の部将で、太原王氏。字は文舒。太原郡祁県[1]の人。後漢末の王允の族子、王沢の子。王柔の甥、王機[2]の弟、王渾・王深[3]・王湛[4]の父。族父の王允が李傕[5]・郭汜・張済らに殺害されると、族兄の王宏と王晨・王凌兄弟[6]とともに郷里に舞い戻って、王凌に対して兄事して接した。後に曹操に仕えて、やがて曹丕の近侍となり、屯田開墾に功績を挙げたため、兗州刺史となった。曹叡の代になると関内侯となった。250年に呉の部将の朱績を撃破して、その配下の鍾離茂・許旻を討ち取り、この戦功により征南大将軍・儀同三司に任命され、京陵侯に昇格した。255年に毋丘倹と文欽が謀反を起こすと、これに対して抗戦して、ふたりの息子が列侯となった。257年に征東大将軍の諸葛誕[7]が反乱を起こすと、江陵に攻撃しつつ朱績を牽制して、見事に諸葛誕を撃破した。この戦功で持節と都督の地位のままで司空に累進した。259年に逝去して、穆公と諡された。
- 王継鵬 : 後に「王昶」と改称する。閩の第4代目の王の康宗。光州固始県[8]の人。太祖忠懿王の王審知の孫、恵宗の王延鈞の子、王継嚴(王継祐)の弟、王継恭・王継韜・王継鎔(王継鏞)・王継業の兄、子の名は不詳。猜疑心が強く、叔父たち宗室を監視し、亡父の側室だった李春燕を王后にした。祖父の王審知の近衛軍であった拱宸都・控鶴都が存在していたが、彼は自分の親衛隊である宸衛都を優遇したことから、軍部の不満が爆発した。拱宸都・控鶴都の軍使(将校)の朱文進・連重が、王から放火を疑われたで反乱を起こし、先手を取って両軍は王宮内に侵入し王は囚われの身となった。囚われた彼は妻の李春燕をはじめ息子たちとともに異母弟の王継業によって処刑された。
- 王昶 (清) : 清の学者。字は徳甫、号は述庵で、巷では蘭泉先生と呼ばれた。蘇州青浦県[9]の人。乾隆期(1736年 - 1795年)に科挙に及第して進士となり、官職は刑部右侍郎にいたった。経学に堪能であり、考證にも精通していた。また、詩・詞・文も博識であった。