王遵(おうじゅん)とは、中国・後漢の人物で、約5名ほど存在する。
- 王遵 (瑯琊王氏) : 字は伯業。後漢の官僚で、瑯琊王氏出身[1]。はじめは瑯琊郡皋虞県[2]の人、後に瑯琊郡臨沂県[3]に本貫を改めた。王吉の曾孫、御史大夫の王駿の孫、大司空の王崇の子、王峕・王音の父、王時・青州刺史の王仁[4]の祖父、王誼・王叡[5][6]・王典・王融[7]の曾祖父[8]、王祥・王覧の高祖父。父が奴婢に毒殺されると、新の皇帝の王莽は彼に父の後を継ぐことを許されなかった。まもなく王莽を見限って、後漢の世祖光武帝(劉秀)に仕え、中大夫となり、義郷侯に封じられた。文人としても著名で、『諌隗囂謀殺来歙』を著している。
- 王遵 (子春) : 字は子春。後漢の官僚。司隷京兆尹覇陵県[9]の人。前漢末期の上郡太守の王某の子、子の名は不詳。はじめは隗囂に仕えて、明威将軍となった。後に光武帝に仕えて、河南尹・太中大夫に任命され、向義侯[10]に封じられた。
- 王遵 (楽浪郡太守) : 後漢の楽浪郡太守。光武帝に仕えて、30年に楽浪郡の漢人土豪の王調・崔理らが反乱を起こし、その太守の劉憲を殺害して楽浪郡を支配したため、楽浪郡遠征の総司令官となり、王調を攻め滅ぼした[11]。その功績で楽浪郡太守となった。
- 王遵 (正徳期) : 字は舜典。明の進士。直隷寧国府宣城県[12]の人。王允中の曾孫、王昌裔の孫、王度の子。科挙に及第して進士となった。
- 王遵 (嘉靖期)(1508年 - 1567年) : 字は子法。明の進士。順慶府南充県[13]の人。王昺の曾孫、王商の孫、王希德の子、王選・王遷・王達の弟、王追・王遴・王謙・王述の兄、王瑤・王誥・王廷(監察御史)・王郁の父。科挙に及第して進士となった。
脚注[]
- ↑ 秦の部将の王離の子の王元(瑯琊王氏の祖)・王威(太原王氏の祖)兄弟を祖として、太原王氏とは同族とする(『新唐書』宰相世系表二中)。
- ↑ 現在の山東省即墨市東北
- ↑ 現在の山東省臨沂市蘭山区
- ↑ 『新唐書』唐宰相世系表十二中では王音と同人物とする。
- ↑ 字は通耀。荊州刺史だったが、190年に孫堅(呉の烈祖武帝)に包囲されて、金毒を飲んで自決した。
- ↑ 裴松之が引く『王氏譜』による。
- ↑ 字は巨偉。
- ↑ 『晋書』王祥伝
- ↑ 現在の陝西省西安市覇陵地区
- ↑ 上雒侯の説もある(『後漢書』隗囂伝が引用する『続漢書』)。
- ↑ 王遵が攻める前に、王調は楽浪郡の国人によって殺害された説もある。
- ↑ 現在の安徽省宣城市
- ↑ 現在の四川省南充市順慶区