日本通信百科事典

王駿(おうしゅん)とは、中国の人物で、約2名ほど存在する。

  1. 王駿 (瑯琊王氏) : 字は偉山/偉宣。「王俊」とも呼ばれる。前漢末期の官僚で、瑯琊王氏出身[1]。瑯琊郡皋虞県[2]の人。の部将の王翦の10世の孫、王賁の9世の孫、王離の8世の孫、王元の7世の孫、王頤(王忠/王廷臣)の6世の孫、王暉(王楽)の玄孫、王曜(王之曾)の曾孫、王襲の孫、王吉の子、王広の甥、大司空の王崇・王游の父、王遵の祖父、王峕・王音[3]の曾祖父、王時・王仁の高祖父。御史大夫となった。
  2. 王駿 (新) : 前漢末期~の部将。王莽に仕えて、明義侯に任命され、「強弩将軍」(彊弩将軍)と称され、奮武将軍の孫建・虎牙将軍の王邑ら6人の将軍とともに謀反を起こした東郡太守の翟義討伐に向かった。しかし、戦功を挙げられずに、解任された。後にトルコ系匈奴の使節として派遣されるが、傲岸不遜な対応をしたので匈奴の怒りを買う結果となった。間もなく王莽の命で立国将軍の孫建ら12人の将軍のひとりとして、匈奴遠征に向かった。数年後に王駿は西域都護・李崇とともに西域へと出撃した。その際に焉耆国は偽って降伏し、王駿らの隙を見て備えていた。そのため王駿らは、傘下の西域諸国の莎車国・亀茲国などの7千人の軍勢を率いて焉耆国を攻撃した。しかし、王駿指揮下にあった西域諸国の姑墨国・尉犁国・危須国などが反逆したため、王駿は大敗して戦死を遂げた。

脚注[]

  1. 瑯琊王氏は、王離の子の王元(瑯琊王氏の祖)・王威(太原王氏の祖)兄弟を祖として、太原王氏とは同族とする(『新唐書』宰相世系表二中による)。
  2. 現在の山東省即墨市東北。孫の王遵以降は、本貫を同郡臨沂県(現在の山東省臨沂市蘭山区)に変更された。
  3. 『新唐書』唐宰相世系表十二中では王仁と同人物とする。