田中氏(たなかし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野田中氏とも呼ばれる。
上野国新田郡田中郷[1]を拠点とした。
概要[]
1221年の『承久の乱』で義清の子の重政らは戦功を挙げたために、北条得宗家によって与えられた越後国中魚沼郡[2]に移住した(越後源氏)。
1333年に惣領家の新田義貞に従い、鎌倉攻めの大将となり北条得宗家を滅ぼした。以降も義貞に従って転戦して、多くの一族が戦没したが、1338年に越前国藤島の灯明寺畷で義貞が戦死を遂げると、義貞の子の義興に従ったが、1358年に義興が武蔵国武蔵国矢口の渡しで謀殺されると、上野田中氏一門の宗村(太蔵)は九州にいる征西大将軍の懐良親王の軍に馳せ参じた。そして、翌年8月の『筑後川の戦い』において菊地武光麾下として戦い、ここで戦死を遂げた。
1368年に関東管領で越後国守護の上杉憲顕の軍勢に攻撃されて、上野田中氏の勢力は徐々に衰えた。以降の上野田中氏は南朝方と北朝方に分裂して、義貞の孫の貞方(義邦)・貞邦(貞国)父子が挙兵しても、その麾下に加わらない一族も出た。そのために北朝方で、同族の足利将軍家の当主の足利義満から安堵を得たようである。以降から新田郡田中郷に戻って、当地を拠点とした。
1416年に『上杉禅宗の乱』が起こった際に、上野田中氏の多くはその麾下に加わったために、幕府方であるおなじく同族である足利氏(下野源氏)一門の新田岩松家と抗争したが、上杉禅宗(氏憲)が大敗したために、おなじく同族の古河足利家(古河公方)の足利成氏[3]に仕えたり、上野田中氏は四散して、戦国時代初期になると三河国に移住して、三河酒井氏の仲介で遠縁筋の松平氏(徳川氏)に仕えたが、家房の代で嗣子がなく、ついに上野田中氏は断絶した。
歴代当主[]
経氏系[]
- 田中経氏 : 重経の子、重継の弟、経宗・経村の兄。
- 田中政継 : 氏政[6]・義胤[7]の兄。
- 田中綱政
- 田中宗世
- 田中経通 : 経長[8]の兄。
- 田中経秀
- 田中俊秀 : 景秀の弟。
- 田中政秀
- 田中長俊 : 長秀の弟。
- 田中俊光 : 政氏・経胤の兄。
- 田中俊義 : 断絶。
政綱系[]
- 田中政綱 : 経村の子、義房[9]・重村・親経の弟。
- 田中時綱
- 田中経勝
- 田中経世
- 田中経忠
- 田中経久
- 田中経友 : 為忠[10]の弟。
- 田中経守
- 田中経安
- 田中氏行 : 氏久[11]の兄。
- 田中氏経
- 田中経俊
- 田中政行
- 田中政定 : 政重(政繁)の弟。
- 田中政親
- 田中親行
- 田中家房 : 断絶
脚注[]
- ↑ 現在の群馬県太田市田中大字
- ↑ 現在の新潟県十日町市
- ↑ 鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利持氏の末子。
- ↑ 家貞の父。
- ↑ 清氏の父。
- ↑ 宗村(太蔵)・政選・親経・久氏の父、弘政(宗村の子)・政景(政選の子)・政久(久氏の子)の祖父、氏選(政景の子)・忠久(政久の子)の曾祖父、氏則(氏選の子)・忠政(忠久の子)の高祖父、経選(氏則の子)・政清(忠政の子)の6世の祖、興政(経選の子)・政光(政清の子)の7世の祖、隆選(興政の子)・晴光(政光の子)の8世の祖。
- ↑ 政俊の父、経俊の祖父、宗俊の曾祖父、義実の高祖父、景俊(族兄弟の俊秀を養子に迎えた)の6世の祖。
- ↑ 朝長の父。
- ↑ 村宗の父。
- ↑ 為勝の父、為重の祖父、為明の曾祖父。
- ↑ 経久の父。
関連項目[]
- 田中氏