石橋氏(いしばしし)は、日本の氏族。下野国を拠点としたため、下野石橋氏とも呼ばれる。
足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の石橋義利[1]を祖とする。義利が下野国都賀郡石橋郷[2]を拠点として、石橋氏と称したことからはじまる。
概要[]
義利の子の義博を経て、義博の子の和義の代なると、勢力を拡大した。和義は惣領家の足利尊氏(高氏)に従って、尊氏が同族の新田義貞らに大敗して、鎮西地方に敗走した際に、備前国三石城の守備を命じられた。和義は脇屋義助(義貞の弟)の軍勢に包囲されながらも、籠城を貫いて、戦功を挙げた。これによって、伯耆国・備後国・若狭国などの守護を歴任したほか官途奉行・引付頭人・評定衆などと幕府の重役を歴任した。しかし、貞治2年(1363年)、族兄弟である斯波高経と対立したたまに、全役職を解かれて失脚してしまった。
また、室町幕府から正式に守護に選ばれたのは、足利氏一門で和義が最初であったが、在任1年程度では国人の被官化には繋がらず、それが石橋氏の勢力を急速に落とした要因にもなっている。
貞治5年(1366年)に、斯波高経が失脚すると将軍の足利義詮(尊氏の子)は和義の子の棟義を登用して、同族の奥州管領の斯波直持と吉良貞経と協力して、吉良治家を追討させた。棟義は治家を没落させた後も軍事指揮権を維持したまま、土着化した。さらに父の和義も奥州に下向し、棟義の支配を援助した。意気揚々に安堵状を発給して、その量は奥州管領の斯波詮持をも凌駕した。しかし、至徳3年(1386年)を境に、石橋氏の消息が定かではなくなった。
石橋氏の庶家の塩松氏の伝承によれば、陸奥国・出羽国までに管轄下に置く事になった鎌倉公方・足利氏満によって、明徳3年(1392年)に宇都宮氏が陸奥国安達郡塩松郷[3]に入ってきたが、それに反発した奥州探題の大崎詮持が応永7年(1400年)に、配下の葛西満信の命じて宇都宮氏を追討させた。宇都宮氏を討った大崎詮持は叔父・大崎持義を塩松持義と改称させて、塩松郷を統治させた。数年後~十数年後に、持義が没してしまったため、同族の大崎満博(満広とも、塩松治義の父)が持義の女婿として、塩松郷を統治させた。
その後、正長・永享期間には棟義の子の祐義(左衛門佐入道)が在京するとともに、正長元年(1428年)の『満済准后日記』に「奥篠河殿、並伊達蘆名白河懸田川俣塩松石橋也」と登場して、陸奥国安達郡東方を分郡に塩松を名字とする庶家を分出していた。こののちも、室町時代において同族の三河吉良氏(三河源氏)や上野渋川氏(上野源氏)とともに、足利氏一門として幕府内において一目置かれたが、すでに守護大名衆の列からは完全に外された存在であった。
歴代当主[]
- 石橋義利 : 斯波家氏の子、天童義成の弟、貞数・宗家[4]の兄。
- 石橋義博
- 石橋和義
- 石橋棟義 : 和義の子、義幸の兄。
- 石橋祐義 : 棟義の子。
- 石橋房義
- 石橋清房
- 石橋博義(広義)
- 石橋重義
- 石橋政衡
- 石橋忠義
- 石橋泰義
- 石橋貞義
- 石橋久義 : 貞義の子、為義・照義・実義の兄。
- 石橋義景 : 久義の子、義充[5]の兄。
- 石橋康義
- 石橋信義
塩松氏(塩松石橋家)[]
大崎満博(満広)の子の治義が陸奥国安達郡塩松郷[3]を本拠地としたことからはじまる。
概要[]
塩松氏はもともとは同族の奥州大崎氏の庶家で、一族の治義が石橋氏の婿養子になったことで、石橋氏一門(塩松石橋家)となり、京都扶持衆として鎌倉府の奥州支配に対抗した。篠川公方の足利満直は京都方であったので、京都との取次衆および幕府の使者の応接は石橋氏が管理していた。鎌倉府が永享の乱で崩壊した直後の永享12年(1440年)に、満直は畠山満泰・二本松持重・石橋左近将監・石橋祐義・蘆名盛信・田村利政らに攻められて殺害されたとの説もあるが、塩松氏(塩松石橋家)らの関与は疑問が呈されている[6]。いずれにせよ塩松氏は、篠川公方が穆楽した後にも、国人として存続したと考えられる。このころの事は国人衆の記述が多い『余目氏旧記』にも出てこない事を考えると、足利氏一門として同族の奥州大崎氏やその庶家の最上氏と同列に認識されていたと思われ、塩松氏は高い家格を誇っていたこともわかる。享徳の乱では塩松義仲が奥州で活躍している。
戦国時代には伊達氏の後継争いから生じた『天文の乱』で石橋尚義は稙宗派として参戦したが、後に晴宗派に鞍替えしている。しかし、天文19年(1550年)に重臣の大内義綱に実権を奪われて、塩松城内に監禁され、永禄11年(1568年)には塩松城からも追放されてしまった。そして、天正5年(1577年)に尚義は失意のうちに死去して、子の景義に嗣子がなく。これによって塩松氏はついに断絶した。