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禿髪阿毎

阿毎氏の遠祖である禿髪阿毎の肖像

禿髪阿毎(とくはつあまい、生没年不詳)は、古代から中世にかけての中国北魏の人物。トルコ系鮮卑[1][2]禿髪部は北魏を建国した鮮卑拓跋部の支族であった。

南涼の最後の王である景王・禿髪傉檀の孫で、禿髪破羌[3](源賀)の末子である。兄に源延・源懐・源奐ら、子に禿髪稚渟毛二岐[4]・禿髪意富々杼[5]・禿髪乎非[6]・禿髪汙斯[7]、孫に阿毎男大迹[8](禿髪汙斯の子、後の継体天皇)がいる。

概要[]

鄯州西平郡楽都県(鄯善郡)[9]の人。

414年(嘉平7年)に、同じ鮮卑乞伏部が建国した西秦の太祖文昭王・乞伏熾磐によって祖父の景王・禿髪傉檀が殺害され、南涼が滅ぼされると、父の禿髪破羌は北涼の沮渠蒙遜[10]のもとに逃れた。このときに末子の阿毎が誕生したという。

まもなく父は本家筋の拓跋部の北魏に亡命し、世祖太武帝(拓跋燾)により西平侯の爵位を受け、龍驤将軍の号を加えられた。太武帝は禿髪破羌に対して、禿髪氏が拓跋氏と遠祖を同じくする同族であるとして、破羌に「源姓」を与えた。同時に破羌の息子たちも「源姓」の姓を賜った。以降からこの氏族は河南郡洛陽県[11]を本貫とした。

しかし、末子の阿毎は生母の身分が低いために、「源氏」の姓は賜ることができずに、そのまま「禿髪氏」として、北魏に仕えた。

成長した阿毎は、北魏では自身の出世におぼつかないと判断して、自分の部族を率いて東進して、朝鮮半島で同じ鮮卑慕容部の一派と中山国を建国した古代トルコ人である白狄鮮虞部[12]と鮮卑化したチベット系羌氐[13]とトルコ系とツングース系[14]混合民族である扶余[15][16]などの各部族と合流して、朝鮮半島南部にいた海洋民族である韓人あるいは汙人[17]を奴隷として、舟を製造させて海を渡り耽羅[18](済州島)にある漢拏山の山頂部にある白鹿潭(湖)付近の草原地帯に本拠地して、牧畜生活をした。この連合部族は州胡[19]あるいは「耽羅鮮卑」「耽羅民族」とも呼ばれた(以降は阿毎氏を参照のこと)。

脚注[]

  1. 鮮卑の原音はツングース諸語の祥瑞・吉兆を表わす語の「Sabi」であろうとの説があったが、近年はトルコモンゴル諸語の帯鉤をさす語の「Sarbe」とする説が有力である。中国の史書に記録されている若干の鮮卑語に対して、かつて一部の学者はこれをモンゴル系とツングース系の混種であろうと主張した。しかし、近年は鮮卑語には多少のモンゴル語的要素の混合は認められるも、本質的にはトルコ諸語であり、従って鮮卑はトルコ系であったとする学説が有力である(陳舜臣もこれを支持している)。
  2. 同時に内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年刊行)の3~4頁が引用するフランスポール・ペリオは1925年秋にロシアのレニングラード(サンクトペテルブルク)における講演において、4~5世紀に華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はトルコ諸語に属する民族であったと発表したと、それを引用したドイツ系ロシア人のワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(ヴォルフガング・ヴィルヘルム・バルトルト)(Vasily Vladimirovich Bartold)は紹介した(Wolfgang.Wilhelm.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)。ついでに引き続き引用されたぺリオ自身は鮮卑語をモンゴル諸語とみる意味のことをToung-pao XX.S.328注3、XXVII.S.195.注1で発表した。ペリオを引用したバルトリドは鮮卑の言語はトルコ諸語であると論じ、鮮卑は疑いもなくトルコ諸族であったと結論を示し(Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)。さらに、アメリカのP.ブッドバーグは鮮卑拓跋部をはじめとする諸族の語彙が実質的にトルコ諸語に属する民族である考証を示した(P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。
  3. 禿髪破羌の別名は賀豆跋(山西省大同市博物館の山西省文物工作委員会による『山西大同石家砦北魏司馬金龍墓』1972年の第3期)・駕頭抜(『宋書』巻九十五・列伝五十五)とも呼ばれる。
  4. 禿髪若沼野毛二俣・禿髪稚渟毛二派とも呼ばれる。
  5. 禿髪意富々杼・禿髪意富々等・禿髪大々迹とも呼ばれる。
  6. 禿髪宇非・禿髪宇斐・禿髪弘斐とも呼ばれる。
  7. 禿髪琵古主人・禿髪毘古主人とも呼ばれる。
  8. 阿毎袁本杼・阿毎雄大迹・阿毎乎富等・阿毎琵古太尊・阿毎毘古太尊とも呼ばれる。
  9. 現在の青海省海東市楽都県(湟水県)
  10. トルコ系匈奴の一種族である沮渠氏族の酋長という。
  11. 現在の河南省洛陽市
  12. 漢風の姓は釐姓。
  13. 前秦の苻(蒲)氏と後秦の姚氏などの残党を含む。
  14. 扶余と民族的に近親関係にある穢(獩)貊(濊狛)・沃沮はツングース系と骨子として、トルコ系と混血している民族とする説もある。
  15. 鮮卑と同じく東胡の後身とする説がある。
  16. その一方で、金平譲司『日本語の意外な歴史』では扶余はアルタイ化したウラル語族の南サモエード諸族の後裔で、鮮卑化したチベット系姜氐と混血して、日本人の祖となったと伝わる。
  17. 日本の先住民族である倭(委)人とは別種族で、根あるいは泥とも呼ばれるオホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)に属する。
  18. 耽牟羅・屯羅・渉羅・純羅・度羅とも呼ばれた。
  19. 『後漢書』列伝第八十五東夷伝による。

関連項目[]