秦(しん)とは、中国の王朝、陝西省大部分の地名を指す(三国時代の魏の治世に涼州東部から秦州が分岐された)。
- 秦 (古代)(前778年 - 前222年) : 姓は嬴[1]。周の孝王の治世に、遊牧民族の西戎(犬戎)[2]の一酋長の非子(大駱の子)が放牧による馬の生産を行ない、功績を挙げたので嬴姓を賜り、大夫となり、秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県一帯)を賜ったのに始まる。幽王の代に申侯(姜姓)と同盟して、幽王の太子で申侯の外孫でもある孟宜臼(平王)を擁立して、自堕落して果てた幽王とその叔父の鄭の桓公友を弑して、東進した周の旧都である咸陽を拠点とした。
- 前秦(351年 - 394年) : 姓は苻(旧姓は蒲)。五胡十六国時代のチベット系氐の王朝で、世祖宣昭帝(天王)[5]の苻堅の代に、同じチベット系の羌の酋長の姚萇の裏切りで、縊られて弑された。以降から前秦は徐々に衰退して、各国によって滅ぼされた。
- 後秦(384年 - 417年) : 姓は姚。上記の前秦と同じく五胡十六国時代のチベット系羌の王朝で、太祖武昭帝の姚萇が主君の苻堅を縊り弑して、建国された。東晋の部将の劉裕(宋漢=劉宋の高祖武帝)によって滅ぼされた。
- 西秦(385年 - 431年) : トルコ系鮮卑乞伏部の酋長の烈祖宣烈王の乞伏国仁が建国した五胡十六国時代の王朝。乞伏国仁の甥の乞伏暮末(高祖武元王の乞伏乾帰の子)の代に、夏漢の劉定(赫連定)[6]によって、滅ぼされて一門皆殺しの刑に処された。
- 秦 (隋末) : 漢族の薛挙の地方政権。唐[7]の高祖の李淵によって滅ぼされた。
- 唐の盧龍節度使であった朱泚の政権。後に関に改称した。