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芙蓉姫

芙蓉姫、右は甘夫人

芙蓉姫(ふようひめ)は、吉川英治の『吉川三国志』[1]のみに登場する女性。

彼女は陳寿の『三国志』および裴松之注引どころか『三国志演義』さえも一切登場しない。同時に「白芙蓉」とも呼ばれる。

概要[]

  • 若き劉備が、黄巾党に追われたときに出会い、ともに危機一髪で家来の張飛に救助された。
  • かつて、黄巾党に滅ぼされた幽州の豪族で県令でもある鴻氏の令嬢で、姓は「鴻」で諱は「芙蓉」である。
  • 黄巾党によって家を滅ぼされ、面識がある寺院の老僧侶の普浄に匿われいた。
  • その後、劉備が現れて、普浄は劉備を英雄だと見込んで、彼女の護衛を依頼して託し、まもなく普浄は身代わりに自害して果てた。
  • 後に親戚に当たる代州[2][3]の富豪の劉恢[4]の庇護を受けた。
  • そこで、(中山郡安喜県の尉の)官職を辞した劉備[5]と出会い、恋愛する。
  • しかし、代州の長官[6]の側室となるため、やむなく劉備と訣別した。
  • そのときの関羽が劉備と彼女との関係を危惧かつ苦悶していた[7]
  • その後は登場しない[8]
  • ただ、劉禅を正統化するために芙蓉姫こと麋夫人を正妻とし、史書どおりに劉禅の生母の甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后[9]は側室のままである[10]

実は劉備の先妻ではないのか?[]

『東観漢記』・『元本[11]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとにして下記のように推測検証をしてみる。

  • 後漢の「雲台二十八将」のひとりである寇恂(雍奴威侯)がおり、劉備の郷里に隣接する上谷郡昌平県[12]の豪族であること
  • 彼女は、その寇恂の末裔で、没落貴族出身の劉備[13]の最初の正室になったこと
  • また、侍中の寇栄[14]の孫の寇猛(寇栄の孫、寇寵の子)[15]の姉妹が「芙蓉姫」自身とする説があること
  • 寇恂には子の洨侯の寇寿(寇壽)・扶柳侯の寇損と甥の寇張(兄の子)、谷崇(姉の子)らがおり、寇恂の親族のうち約8名が軍功を立て列侯に封じられた[16]
  • 商郷侯の寇厘(または寇釐、寇損の子)・その姉[17]・寇襲(寇厘の子)と続き、寇襲の曾孫が劉封の生母とすること
  • 彼女の諱は未詳だが、異説では彼女の祖父の寇栄の非業の死に憚(はばか)って、後に“鴻”に改姓したこと[18]
  • 実は、劉封[19]の生母であること[9]
  • 生没年は未詳だが、何度も妻子を放置して敗走した劉備のことだから、曹操または呂布に捕らわれたり、新参の従事の劉琰劉炎)が当時、豫州牧の劉備に未亡人だった甘夫人(劉公仲劉禅劉永の生母)らを側室に勧めて、怒りのあまりに悶死したこと[20][21]
  • 劉封を葬った諸葛亮および、李厳李平)と、彼を崇拝する陳寿の改竄によって、史書から彼女の存在が抹消され、子の劉封が「劉備の養子」扱いにされたこと
  • 実は劉備は恐妻家だったとされ、そのため名門出の彼女の嫉妬に辟易し、未亡人だった麋夫人や前述の甘夫人らを側室にして気をまぎらわしたと伝わること(俳優の船越英一郎のコメントなど…)
  • 実は彼女の諡号は「先主皇后」と伝わること

…以上とする。

結論

「芙蓉姫」なる人物は『吉川三国志』の創作人物であるが、若き日の劉備にそれに該当する名門出の正室がいたことは推測できる。つまり彼女は、非業の死を遂げた後漢の侍中・寇栄の孫娘であり、ある意味として諸葛亮の改竄の犠牲者のひとりではないかと思われる。それを吉川英治によって救われたと思われる。

日本でいえば、今川義元[22]と今川氏一門である瀬名義広(関口親永)の姉妹との間の娘[23]で、徳川家康の正室である於鶴の方[24]が該当される人物といえる[25]

脚注[]

  1. 吉川は『通俗三国志』を参照している。
  2. 正確には幽州と并州の境目の地域の代郡(代州は時代の地名である)。
  3. 同時に『吉川三国志』では、隋代の地名である定州となっている。
  4. 高祖劉邦の5男の趙共王・劉恢とは別人。
  5. 『三国志演義』では、「督郵を袋叩きにして出奔した劉備は、関羽・張飛とともに代州の富豪の劉恢を頼った…」とのみ、記述されている。
  6. 史書では幽州牧・劉虞のこと。当時の州の長官の官職名は監察長官の「刺史」と、行政・軍事権を把握した事実上の“節度使”(隋唐時代)に等しい「州牧」のみ。
  7. 民間伝承の『関羽斬貂蝉』を参照したと思われる。
  8. 吉川は甘夫人または麋夫人と設定しているが、出身地を考慮すると無理がある。
  9. 9.0 9.1 または、劉封は司隷校尉・臨湘亭侯の劉囂の子で樊城県の令・羅侯の劉泌(寇泌)と甘夫人との間の子で、劉禅らの異父兄とする説もある。
  10. 『三国志の女性たち』(仙石知子・渡邉義浩/山川出版社/2010年)より。
  11. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  12. 現在の河北省北京市昌平区
  13. 『典略』では、斉武王・劉縯の末裔と伝わる。
  14. または寇榮、寇恂の末子の孫。宦官に憎まれ、政敵の幽州刺史の張敬(佞臣)の讒言で164年に威宗桓帝劉志)によって誅殺された(『後漢書』寇栄伝)。
  15. 北魏書』・『北史』巻27列伝第15・『元和姓纂』が引く『寇臻墓志』・趙超『漢魏南北朝墓志滙編(漢魏南北朝墓志彙編)』(天津古籍出版社/1992年)
  16. いずれも嗣子がないまま1代限りで断絶した。
  17. 大将軍・鄧隲(鄧騭)の妻、寇恂の孫娘。後に鄧隲は罷免されて、羅侯として長沙郡羅県(現在の湖南省岳陽市汨羅県 )に左遷され、侍中だった子の鄧鳳と絶食して没した。
  18. 幽州上谷郡では「寇」と発音され、徐州小沛付近では「鴻」がより近い発音だったと推測される。
  19. 諡号は寇太子あるいは、鴻太子という。
  20. また、彼女の祖父の寇栄の非業の死が宦官の曹騰高帝)も深く関わっていたため、彼女は曹騰の養孫である曹操のことも快く思っていなかったという(寇栄の項を参照)。
  21. そのために劉備の側室の甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后、劉禅の生母)が、同じ側室の麋夫人(麋竺の妹、麋芳の姉)とともに、大奥(後宮)を執り仕切ったという(『蜀書』甘皇后伝)。
  22. 足利氏下野源氏)流三河吉良氏三河源氏)一門。
  23. 姪の説もある。
  24. 別名は築山御前。
  25. (寇氏の)子とされる劉封は信康に等しい人物である。

関連項目[]

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