
若月氏の家紋(雁木菊)
若槻氏(わかつきし)は、陽成源氏(河内源氏)流信濃森氏(信濃源氏)一門。若槻頼隆を祖とする。信濃国水内郡若槻郷[1]を拠点とした。同族に茂理氏、庶家に下総若槻氏があった。
概要[]
頼隆は幼いときに、『平治の乱』で、祖父ほども年齢が離れた年老いた父の源義隆を失って、30歳近く親子ほども年が離れた長兄の森義広の軍勢に護衛されて、嬰児であった異母弟の茂理定隆とともに婚姻関係にある丹姓平氏千葉氏(房総平氏)の庇護を受けた。
成長した頼隆は、義広・定隆兄弟とともに信濃国に戻って、源家(相模源氏)の当主で、族孫の源頼朝に仕えて、源氏一門の御家人として厚遇された。
頼隆の子の頼定は、朝廷や北条得宗家に仕えて、安嘉門院判官代などを歴任した。頼定の子の定氏も父と同様で、要職を歴任した。
定氏の子の頼氏以降は、定かではないが、遠縁筋の頼清流信濃村上氏(信濃源氏)の家老として、仕えていたと思われる。
戦国時代の清尚の代になると、おなじく遠縁の同族の武田氏(甲斐源氏)の当主の武田晴信(後の信玄)と対決して、1548年の『上田原の戦い』で、清尚は戦死を遂げた。
その子の清継(左京進)は、その弟の隆季(尚託[2]/高秀斎)とともに、晴信の北信濃の再侵略によって、主君の村上義清に従って、越後国の越後長尾氏の当主の長尾景虎[3](後の上杉謙信)を頼って、鎌倉時代以来から世襲した若槻郷を晴信に奪われる結果となった。その後の清継の動向は定かではないが、嗣子がなく弟の隆季が後を継ぎ、その子の尚俊が継いだが、嗣子がなく断絶したという。
また、1558年に清尚の一族の義里(頼仲と氏朝の末裔)が、式部大輔として、おなじく遠縁の同族の足利将軍家に仕えて、1570年に逝去したという記録があるが、義里の系統の消息は途絶えている。
江戸時代後期の儒学者の若槻幾斎(森義敬/義誠)[4]は、前述の義里・義俊父子の女系の後裔といわれる。
後世に碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美濃長屋氏の庶家の美濃森氏と出羽国の土師姓大江氏流寒河江氏一門の出羽高松氏と上記の千葉氏一門の押田氏などは、若槻氏の後裔と仮冒したという。
歴代当主[]
- 若槻頼隆 : 源義隆の子、森義広の弟、茂理定隆の兄。
- 若槻頼定 : 頼胤の弟、光広・親光・経光・吉祥丸の兄。
- 若槻定氏 : 義泰[5]の弟、頼泰・朝氏(上野冠者)・泰朝・義定・頼明・信義(戸田冠者)・義通[6]の兄。
- 若槻頼氏
- 若槻光氏 : 光定・光重の弟。
- 若槻氏清
- 若槻頼俊
- 若槻頼師
- 若槻頼長 : 法名は覚三入道。
- 若槻頼継[7] : 通称は七郎次郎。
- 若槻宗光
- 若槻宗清
- 若槻清尚
- 若槻隆季(尚託[2]/高秀斎) : 清継の弟。
- 若槻尚俊 : 断絶。
下総若槻氏[]
- 若槻頼胤 : 頼定・光広・親光・経光・吉祥丸の兄。
- 若槻頼広 : 通称は押田冠者。
- 若槻頼輔 : 胤義[8]の弟、頼仲・押田吉胤(孫太郎)[9]室の兄。通称は押田太郎。官職は左衛門尉。
- 若槻頼繁 : 官職は押田蔵人。
- 若槻頼清 : 義繁の弟、家茂の兄。
- 若槻頼忠 : 通称は多古次郎太郎。