若槻 清尚(わかつき きよなお/きよひさ、? - 天文17年2月14日(1548年3月23日))は、戦国時代の武将。官職は左京亮。
信濃森氏(信濃源氏)一門の若槻氏の当主の若槻氏朝[1]の子、清継・隆季(尚託[2]/高秀斎)の父、尚俊(隆季の子)の祖父。一族の義里は、遠縁筋の足利将軍家の奉公衆をつとめた。
概要[]
おなじく遠縁筋の頼清流信濃村上氏(信濃源氏)の当主の村上義清の家老として、仕えていた。
天文7(1538年)6月に、越後国守護代で、越後長尾氏の当主の長尾晴景(上杉謙信の長兄)の軍勢が信濃国北部に攻め入った際に奮戦して、敵の13の首級を獲ったという武勇伝がある。『若槻村上系図』によれば、ある年の6月15日に長尾為景(晴景の父)[3]と激戦して、戦いは1日に13回に及んだと記されている(『稲附原の戦い』)。
その後、信濃国攻略を狙う、おなじく遠縁筋の武田晴信(後の信玄)と対立して、雌雄を決すべく主君信長村上義清は天文17年(1548年)1月18日に反武田勢力を結集して、付近の産川下流の西方にある天白山(須々貴山)に陣を張り、武田軍の侵攻に備えた。これに対して、武田軍は本拠地の甲斐国躑躅ヶ崎館から、2月1日に出陣して、2月14日に両軍が激突した(『上田原の戦い』)。この戦いで、村上方は武田氏(甲斐源氏)一門の板垣信方・甘利虎泰(まさやす)などを討ち取って、辛勝して武田勢を敗走させるも、この戦いで清尚は戦死を遂げた。
その後、子の清継が後を継ぐが、再び信濃国に攻め入った武田軍の攻勢の前に、主君の村上義清はついに逃亡する憂き目に遭うことになった。『村上家伝』によれば、義清が越後国の長尾景虎(かげまさ、後の上記の上杉謙信)を頼って落ち延びる際に、これに清継とその弟の隆季が従った。これにより若槻氏は、鎌倉時代から世襲した本拠地を逸することになった。
脚注[]
関連項目[]
- 若槻頼隆
|
|
|