
若槻義里肖像(左側の立烏帽子の白直垂(水干)の人物)
若槻 義里(わかつき よしさと/よしまさ、? - 元亀元年(1570年))は、戦国時代の武将。官職は式部大輔。
信濃森氏(信濃源氏)流若槻氏の庶家の下総若槻氏一門の若槻頼仲と氏朝の末裔、義俊の父、惣領家は清尚である。
概要[]
弘治4年/永禄元年(1558年)に、遠縁の同族の足利将軍家の当主の足利義輝(義藤)の奉公衆として、仕えていた。
永禄8年(1565年)に義輝が、山祇(やまつみ/やますみ)姓阿波久米氏一門の三好氏の当主の三好長慶の家老の松永久秀ら三好三人衆に弑殺されると、その弟である一乗院覚慶こと義昭(義秋)に仕えた。
同時に実力者の織田信長とも、懇意があったといわれている。
元亀元年(1570年)に逝去したという記録があるが、以降の義里の系統の消息は途絶えており、子とされる義俊の動向も定かではない。
江戸時代後期の儒学者の若槻幾斎(森義敬/義誠)[1]は、義里の孫娘で、義俊の娘が、森久利に嫁いで、その間に良忠(義忠)を儲けて、幾斎はその系統といわれる。
脚注[]
- ↑ 森義敏の子。通称は元三郎/源三郎/玄三郎。
関連項目[]
- 信濃森氏
- 織田信長