董承(とうしょう)とは、中国の後漢末の人物。約2名ほど存在する。
- 董承 (隴西董氏)[1] : 隴西郡臨洮県[2]の人。董卓のひとり息子で、20歳前後で夭逝した[3]。
- 董承 (河間董氏) : 河間郡[4]の人[5]。孝仁董皇后(永楽太后)の従子(従兄の子)[6]、驃騎大将軍の董重(子高[7])の又従弟[5]、南陽郡太守の張忠[8]の外又従兄弟[5]、董貴人の父。はじめは、牛輔(董卓の女婿)の部曲(自軍の配下)をつとめた。牛輔が部下の攴胡赤児(支胡赤児[9])に暗殺されると、その軍勢を引き継いで、しばらくは長安付近に潜伏していた。やがて、李傕・郭汜(郭侈)・張済・樊稠らが勢力争いして、それに紛れて董承の外従兄弟の霊帝(劉宏)の次子で外族子にあたる愍帝[10](劉協)は士孫瑞らの手引きで、長安を脱出した。これを聞いた董承は士孫瑞らと連絡をとり、軍勢を率いて外族子である愍帝のもとに駆け付けた。外族父が援助したことを喜んだ愍帝は、その娘を側室にして、彼を安集将軍に任じた。やがて董承は黄巾党の一派であった白波党の頭目である楊奉・韓暹・李楽・胡才および、トルコ系匈奴屠各部攣鞮氏族の於扶羅単于と呼廚泉兄弟らとともに戦った。やがて、兗州刺史の曹操に援軍を要請して、見事に李傕らを撃退して洛陽に再遷都することに成功し、その功で衛将軍~車騎将軍を歴任した。しかし、そのために曹操が次第に勢力を得て、これを危惧した愍帝の密書を受けて「打倒曹操」の計画を、王服・呉碩(呉子蘭)・种輯らとともに練った。さらに劉備・馬騰(馬超の父)も誘ったが、両人とも途中で逃げられたために、追い打ちするように、董承の下僕の秦慶童が不正を働いて、主人から死刑を宣告されたために、身の危険を感じた秦慶童は曹操に密告した。200年正月に計画は露見されて、董承一派は曹操によって処刑された。彼の娘の董貴人は愍帝の子を懐妊していたが、曹操は許さずに愍帝の嘆願を強引に振り払って、彼女を絞殺した。
脚注[]
- ↑ 『魏書』李傕・郭汜伝が引く『献帝起居注』の注釈で、皇甫酈(皇甫嵩の甥)が「董卓の親族に董旻・董承・董璜があり、彼らは各軍隊を統轄していた」と述べている(つまり、皇甫酈が述べている董承とは董卓の息子の可能性がある見方を示している)。
- ↑ 現在の甘粛省定西市臨洮県
- ↑ 異説では、父が殺害されると曹操を頼るも殺害されたとも伝わる。
- ↑ 現在の河北省滄州市献県河間地区
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『元本』(『元大徳九路本十七史』)
- ↑ 『蜀書』先主伝が引く裴松之の注釈より。
- ↑ 『後漢書』本紀 第八「孝霊帝紀」が引く李賢注より。
- ↑ 孝仁董皇后(永楽太后)の姉の子。
- ↑ 盧弼箸『三国志集解』より。
- ↑ 魏では献帝と諡された。