
藤原玄明(左側)
藤原 玄明・玄道(ふじわら の はるあき/はるみち、878年(元慶2年)? - 940年3月(天慶3年2月))は、平安時代中期の武将で、『承平天慶の乱』の首謀者のひとり[1]。
藤原南家一門の中納言の藤原諸葛(もろかず)の庶子(末子)で、高成[2]・末業・善行・玄致・玄上[3]の異母弟で、玄茂[4]は同母兄、連国の父。生母は遠縁筋の中臣姓常陸鹿島氏(鹿島神家)の娘で[5]、妻は毛野氏の娘である。
概要[]
生母の身分が低いために、京での昇進の可能性が皆無に等しく、河内国にいた常陸掾である同母兄の玄茂とともに、坂東(関東地方)に下り、その土豪となった。
このような背景に、奈良時代末期からの律令制が崩壊する一方、都での栄達の道を閉ざされた皇族・貴族が地方に国司として赴任して蓄財して、任期が終わっても都に帰らずに武家貴族(軍事貴族)としてその地に土着する事が多くなった。坂東地方でもそうした土着受領が各地に見られたが、その規模は様々であった。広大な農地を私有して多数の農民を支配下に置く大領主から、比較的小規模な領地しかもたず、大規模な舘を構えず浮動性が著しい者もいた。玄明は後者に属した。
後に、玄明は藤原南家の嫡流に近い常陸介の藤原維幾[6]と勢力争いをした挙句に追われて、妻子や郎党を引き連れて平将門の下に庇護を求めた。
生涯[]
玄明は生母の郷里である常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点として農地を経営しており、領地の収穫物を思うまま横領し、国府には租税を一切納めず、惣領家の常陸介の維幾に抵抗していた。
939年(天慶2年)、維幾は太政官符の指示に従い玄明らを捕獲しようとするが、それを察した玄明は妻子を連れて、同族である藤原北家山蔭流の藤原国豊・清名父子一行とともに下総国豊田郡[7]へ逃亡して、平将門に庇護を求めた。その途中で常陸国行方郡[8]・河内郡[9]の不動倉[10]を襲撃した挙句に、略奪した。維幾は将門に玄明らの身柄引き渡しを要求するが、将門は「既に逃亡した」とこれを拒否し、玄明を支援すべく[11]兵を集めて、11月21日常陸国国府に出兵して玄明の追捕撤回を求めた。これに対し常陸国国府は武装を固めて要求を拒否して、両者との激戦となり、兵力が少数の将門勢が圧勝して国府を占領、国司を捕縛する事になる。これにより、将門の行為は丹姓坂東平氏(房総平氏)の一族の間での「内紛」から朝廷への「反乱」に発展するに至った。
また、将門が若いころに仕えていた関白の藤原忠平(藤原北家)へ送った書状によると、常陸国国府を攻撃・占領した事について、
- 「維幾の子の為憲が、卿(忠平)のご威光を笠に着て玄明どのを圧迫しており、玄明どのの愁訴によって事情を確かめに常陸国国府に出向いたところ、為憲は平貞盛と結託して兵を集めて挑んで参りましたので、これを撃破したのでござりまする」
と述べてあり、この事件は、将門が藤原玄明を助けようとした事よりも、将門と対立関係にあった叔父の良兼と母方の従兄の貞盛の画策であった可能性があったともいわれている[12]。
さらに将門は上野国国府を占領すると、自ら「新皇」と僭称して[13]、除目(じもく)すなわち、朝廷に反目して新しい国司などの役人の任命を行なっているが、玄明は何の官職に任命されたか不詳である[14]。
将門の新皇僭称後のわずか2ヶ月の940年3月(天慶2年2月)、将門の母方の従兄の平貞盛・繁盛・良盛(良正/兼任)兄弟、貞盛の子の維叙(維敍)、貞盛の従弟の藤原為憲(維幾の子)、貞盛の母方の叔父である藤原北家魚名流の藤原秀郷らの襲撃を受けて、将門が戦死すると勢力は一気に瓦解した。後日に常陸国で貞盛ら追撃を受けた玄明も同母兄弟の玄茂とともに討ち取られた[15]。
玄明の子の連国は、将門の叔父の平良文の庇護を受けた将門の嫡子の将国[16]に同伴して、かつて亡父の領地であった常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方まで逃れ、常陸伊佐氏の祖となった[17]。
脚注[]
- ↑ 玄明の素顔は「素(もと)ヨリ国ノ乱人タリ、民ノ毒害タルナリ」と、酷評されている(梶原『将門記2』)。
- ↑ 長忠・為政・長範の父。中宮少進・式部少丞を歴任。
- ↑ 諸葛の5男(嫡子)、輔仁の父。従三位・参議まで累進した。
- ↑ 上総介となった興世王(桓武天皇の6世の孫、伊予親王の玄孫、高枝王の曾孫、十世王の孫、時世王の子)とともに、将門より、常陸介に任ぜられた(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)が引用する『皇胤志』(中田憲信)より)。
- ↑ あるいは京の遊女説もある。
- ↑ 高望王の女婿で、藤原為憲(工藤氏の祖)の父。
- ↑ 現在の茨城県常総市豊田大字
- ↑ 現在の茨城県潮来市/行方市
- ↑ 現在の茨城県龍ケ崎市/稲敷市
- ↑ 官営の穀物倉庫。太政官の許可がないと開けられない規則がある。
- ↑ 一説には、「玄明が維幾を暗殺もしくは戦いを挑もうとしていた」と、ある(『将門記』)。
- ↑ 荒井『平将門論』より。
- ↑ 自らの地位や身分を越えて、勝手に名乗る事である。将門は桓武天皇の孫の高望王の外孫であったが、本姓は「平姓」を冠とした丹姓の系統であり、「新皇」と称するのは無理があった。
- ↑ 一説には、上総守に任じられたという。
- ↑ 玄明が討伐された日や誰が討ったかについては史料がなく不詳である。
- ↑ 篠田氏の祖。
- ↑ この系統に陸奥国の伊達政宗と尾張国の柴田勝家などがいる。
参考文献[]
- 『将門記2』(梶原正昭/平凡社東洋文庫/1979年第2版)ISBN 978-4256182703
- 『平将門の乱』(福田豊彦/岩波新書/1981年)ISBN 978-4004201687
- 『日本の歴史4 平安京』(北山茂夫/中公文庫/1983年第13版)ISBN 978-4122000520
- 『平将門論』(荒井庸夫/大同館書店/1923年)ISBN未入力