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(しょく)とは、中国四川省全体の地域を漠然に指す。古来から巴蜀とも呼ばれ、「虫偏」がつくことから、古来からチベット系の民族の大部分が在住していた。

語源は2説ある。蜀地方の蚕が名産品の絹を作り上げることから、命名された説と、蜀地方南部に住んでいたタイ系の部族の『守護神』として祀られたため、命名された説が有力である。はっきりわかることは、両説とも蜀地方に利益にあやかって付けられた妥当な文字といえる。

概要[]

古来は「古蜀」と呼ばれた。東晋期の地域史『華陽国志』にその歴史が詳しく記されている。

また、戦国時代の後期に、おそらく古代チベット系とされる西戎系のの昭襄王[1]が、軍事力に物を言わせ、紀元前316年に将軍・司馬錯[2]に古蜀を討伐させて、(蜀王の弟である)苴侯とともに、これを滅ぼして巴蜀(古蜀)を併呑し、ここを罪人の流罪地にしたと述べている[3]

同時に昭襄王は軍事家&土木専門技術者の李氷に蜀郡の太守として赴任させた。当時は罪人やチベット系の反乱が多く、李氷は知恵を絞って息子とともにこれを鎮圧した。やがて、状況が収まると、李氷は「巴蜀の西北地方は高地で荒地が多く、東南地方は低地で湿地が多い」と述べて、巴蜀の地形を利用し、罪人やチベット系住民を懲役に課し、8年の歳月を費やして紀元前256年、岷江の分水と治水、土砂排出と防災の役割を持つ「都江堰水利施設」を完成させ、彼は後世に名を残した。

紀元前206年に劉邦[4]は、西楚覇王の項羽に理不尽な人事異動で、当時「漢中」と呼ばれた巴蜀の北部である「漢王」(漢中王)となった[5]

また、前漢末期~後漢初期に公孫述[6]という人物が「」を建国して割拠したが、後漢の世祖光武帝劉秀)によって滅ぼされた[7]

ちなみに漢代以降から、蜀地方は区分的に「益州[8]と呼ばれるようになった。

歴代王朝[]

  1. 蜀漢 : 「季漢」とも呼ばれ、三国時代の221年にの宗族である烈祖穆帝先主)・劉備が蜀郡成都県[9]を中心に高祖・劉邦以来の「漢」を再興した王朝。劉備の死後、太子・梁王の劉禅が後を継いで、即位した(後主懐帝)。以降は丞相・諸葛亮の補佐で支えられた。234年に諸葛亮が55歳で没すると、諸葛亮の後継者である蒋琬・董允・費禕らに支えられるが、陳祗・宦官の黄皓が政権を握ると国政は振わなくなり、263年冬に晋公の司馬昭が派遣したの将軍の鍾会、鄧艾らによって滅ぼされた。
  2. 成蜀 : 「」「前蜀」[10]あるいは「氐蜀」とも呼ばれ、五胡十六国時代の王朝で、チベット系巴氐族の酋長・李氏が建国した。338年に「蜀」と改称したが、347年に東晋の部将・劉裕(宋漢の武帝)によって滅ぼされた。
  3. 前蜀 (五胡十六国) : 張育の政権(374年)。
  4. 後蜀 (五胡十六国) : 譙縦の政権(405年 - 413年)。
  5. 蜀 (南北朝時代) : 程道養の政権(432年 - 437年)。
  6. 前蜀 (五代十国) : 五代十国時代の王朝のひとつ。末期の節度使の王建(漢族?)が891年に入蜀して、自立した。907年に後梁の朱全忠(朱温)によって唐が滅ぶと、王建は帝位に即いて国号を「蜀」とした。すでに巴蜀は文明開化の時代に入り、印刷術が盛んだった。高祖・王建が没し、末子の後主・王衍(王宗衍)が後を継ぐと、925年にトルコ系突厥沙陀部朱耶(朱邪)氏族の後唐(晋唐)によって滅ぼされた。
  7. 後蜀 (五代十国) : 五代十国時代の王朝で、後唐の部将の孟知祥[11]が入蜀して、自立した。965年に(北宋)の太祖の趙匡胤[12]の軍勢によって滅ぼされた。
  8. 前蜀 (宋) : 李順の政権(994年)。
  9. 後蜀 (宋) : 王均の政権(1000年)。
  10. 蜀 (宋) : 呉曦の政権(1207年)。

脚注[]

  1. 昭王とも呼ばれる。始皇帝の曾祖父。
  2. 司馬遷の8世の祖、司馬靳の祖父。
  3. 『史記』秦本紀
  4. 前漢の太祖高帝(高祖)。
  5. 皮肉なことに、ここが劉邦の天下人としての号令地でもあった。
  6. 前漢の侍御史・河南都尉の公孫仁の子、戦国時代の秦の将軍・公孫起(白起)の末裔という。
  7. 蜀地方の主都である「成都」の由来はここから来ている。
  8. 225年に諸葛亮が益州南部の盟主である孟獲を降すと、南中=西南夷と呼ばれた益州南部は「寧州」として分割された。
  9. 現在の四川省成都市双流県
  10. 五代十国時代の「前蜀」と区別される。
  11. 漢化した突厥沙陀部出身という説がある。
  12. 同じく漢化した突厥沙陀部出身という。

関連項目[]

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