蠣崎 繁広(かきざき しげひろ、1430年3月3日(永享2年2月1日) - 1494年6月23日(明応3年5月20日))は、若狭国の国人。蛎崎繁広とも呼ばれる。
若狭国造の後裔とする蠣崎季繁(蛎崎季繁)の子、光繁(夭逝)の兄、光広の父。生母は安芸国守護の武田信繁の娘。妻は外叔父である若狭国守護の信賢の末妹(信繁の末娘)で、側室は安東政季の娘。

蠣崎繁広像
概要[]
蠣崎氏(蛎崎氏)は隣接する越前国の三国真人の後裔であり、本姓は三国氏である。小浜青井山城で、蠣崎季繁の子として誕生した。はじめは、外祖父の信繁の偏諱を与えられて、信純と称した。官職は蔵人である。
当時の甲斐源氏流安芸武田氏(安芸源氏)と、その一門の若狭武田氏は、外叔父の信賢の子の信広(繁広の外従弟)が父に先立って、16歳で夭逝したり[1]、信広の長兄の親信の動向は不詳で、次兄の国重信恒(国重氏の祖)は廃嫡の憂目に遭ったりしたので、家督を信賢の弟の国信に譲る際に、外甥である繁広を重用するように遺言したが、国信は義兄である季繁と対決したために、季繁・繁広父子は孤立無援となったといわれている。
1452年(宝徳3年)に、季繁・繁広父子は国信から誅殺されることを畏れて、家老の佐々木繁綱(三郎兵衛門尉)[2]と郎党の工藤祐長(九郎左衛門尉)[3]ら数騎を率き連れて夜陰に乗じて出奔したという。
そのまま、古河足利家(古河公方)の当主・足利成氏[4]を頼ったが、同年末に陸奥国の三戸城の城主で、上記の安芸武田氏(若狭武田氏)とおなじ甲斐源氏流の南部氏(奥州源氏)の当主の南部光政を頼った[5]。
季繁・繁広父子は宇曾利を住居に定めて、新たに主となった南部光政の領分から田名部・松前の知行を許され、松前蠣崎家(松前蛎崎家)と称して、錦帯城(蠣崎城/蛎崎城)を居城にしたという。さらに、1454年(享徳3年)の8月28日に、生駒政季を奉じて大畑より蝦夷国に渡海して、上国花沢舘の安東政季を頼った。その後、政季に気に入られて、その女婿となり、1456年(康正2年)に、嫡男・光広が誕生している。
翌1457年(康正3年/長禄元年)に、蝦夷国の先住民であるアイヌ人[6]による和人舘への襲撃があり、日本人とアイヌ人の間で『コシャマインの戦い』が始まった。開戦当初は、奇襲攻撃を受けた日本軍が当時、蝦夷国にあった道南十二舘のうち10舘が陥落するなど追い詰められていたが、季繁・繁広父子が蝦夷国の日本軍を統率して大反撃に討って出ると、アイヌ軍は次々と敗退して、とうとう七重浜にてアイヌの酋長のコシャマイン父子を射殺して、その首級を挙げた。この功績により季繁・繁広父子の蝦夷国における支配は決定的となった。1462年(寛正3年)には勝山舘を築城している。
文明7年(1475年)に、樺太のアイヌの酋長から貢物を献上されて、樺太を支配下に置いたという、当時の日本の勢力から考慮しても、実効支配していたとはいえず、半ば独立状態であったと考えられる。
1494年(明応3年)に、逝去した。享年65。子の光広が家督を継いだ。
繁広の曾孫の慶広は、着実に蝦夷国の奥地に進出して、蝦夷国守護職も得て、徳川将軍家(武蔵源氏)の本姓である三河松平氏(三河源氏)と加賀国の大名の前田氏(尾張前田氏)の両姓を肖って、「松前氏」と改姓して[7]、江戸時代には蝦夷国全域を支配するに至っている。
脚注[]
関連項目[]
- 武田信広
- 蠣崎氏(松前氏)
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