越智氏(おちし)は、日本の氏族。伊予国を拠点としたために、伊予越智氏とも呼ばれる。
古代の越智宿禰(物部姓)を祖として、伊予国越智郡[1]を拠点とした。伊予水軍の棟梁として勢力を持ち、庶家に伊予矢野氏・伊予橘氏・伊予河野氏[2]・一柳氏・伊予岡田氏・伊予三島氏・新居氏・伊予今井氏[3]・伊予大野氏[4]・伊予大崎氏[4]・伊予村上氏・伊予宮原氏・伊予大内氏(福角氏)などがあった。
概要[]
越智氏は5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛県中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その一門である物部大新河の孫である国造の小市小致が越智氏の祖とされている[5]。
8世紀初頭には、律令制により14郡に増加して「小市国造小致」が「越智郡里」となり、そこへ伊予国に国府や国分寺が置かれた。越智氏と国府の関係において、越智氏が元々在地豪族だったとする説もある[6]。律令制国府の場所については国分寺近辺に見当をつけて、発掘調査も一部されたが確定には至らなかった。
越智氏一門が初めて史上に登場するのは、越智郡大領の先祖である越智直(おちのあたい)である。彼は唐と新羅連合軍を相手にした『白村江の戦い』で捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が『日本現報善悪霊異記』に記載されている。伊予国における越智氏の支配力が低下する中で、仏教によって在地支配を再構築しようとした様子が伺われる[7]。
神護景雲元年(767年)に献物により叙位された越智郡大領の「越智直飛鳥麻呂」と「越智直国益」が最初である。天暦2年(948年)には、越智用忠が伊予国の海賊平定の功により、叙位が認められており『承平天慶の乱』で官軍側に立って戦ったことが判明されている。永延元年(987年)に東三条第で相撲があり、越智常世が伊予国より助手として参加するなど、その後も史上には登場するものの、越智為保を伊予追捕使に任命された長保4年(1002年)以降から、越智氏一門が表舞台に登場することはない。
ただ、寛仁2年(1018年)に、伊予守の源頼光(頼満)が藤原摂関家の当主の藤原道長に土御門殿の家具一切を献上したとあり、11~12世紀前後から伊予国の国営支配の実権を握っていたのは在庁官人と呼ばれた軍事貴族(武家貴族)であった陽成源氏の前述の頼光は伊予守時代に越智氏と何らかの関係性が考えられる。
愛媛県今治市大三島町の大山祇神社によれば、越智氏一門の河野氏の庶家らは代々がここの神職(大祝職)を担い、鎌倉時代には、家名を大祝家と称して、現在はこれを担う三島家へと称したとされている。また、越智姓は現在でも今治市で最も多い姓として現代に残されている。