趙範(ちょうはん)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。
- 趙範 (漢)[1] : 常山郡真定県[2]の人。趙の趙桓子の後裔とされ[3]、208年に魏の曹操によって、後漢の桂陽郡太守に任命された。翌209年に遠縁筋である趙雲(劉備の部将)が攻略すると、あっさりと降伏した。その際に嫂の樊氏を趙雲に差し出したが、趙雲はこれを断ったために、まもなく趙範は家族とともに曹操のもとに逃亡したという[4]。
- 趙范 : 字は武仲。別称は「趙範」。岳州府衡山県[5]の人。宋(南宋)の部将。趙方(趙芳)の子、趙葵の兄、趙某の父。父は進士出身で、モンゴル系の元を侮る態度を見せたために、いったんは東京府開封を占領するも、弟と全子才とともに元の軍勢に蹴散らされて逃亡した。1240年に58歳で没して、「忠憲」と諡された。家督は子が継いだ。