足利 義勝(あしかが よしかつ)とは、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門の武将。約6名ほど存在する。
- 仁木義勝 : 仁木氏(三河源氏)の当主の仁木義俊の曾孫、義継の孫、師義[1]の子、頼直[2]の弟、義佐(義任)・頼仲の兄、義連・頼章[3]・義長・頼勝[4]の父。
- 足利義勝 (左近衛中将) : 幼名は千也茶丸、官職は左近衛中将。足利将軍家の足利義教(義宣)の子、義知(政知)・義政(義成)・義視(義躬)[5]の兄。父が臣下の赤松満祐・教康父子に弑殺されると、その後を継いでわずか9歳で将軍となるが、2年後に11歳で夭逝した。
- 足利義栄 : 別名は義勝/義親。足利将軍家の第14代目の将軍。平島公方の足利義維(義賢/義冬)の子、平島義助・平島義佐(義任)の兄、義啓(よしひら)の父。
- 宮原義勝 : 宮原義克とも呼ばれる。源姓宮原氏(上総源氏)の祖の宮原晴直(上杉憲寛/憲広)[6]の子、東獄(僧侶)の兄、義照・義久の父。正室は遠縁筋の真里谷氏(上総武田氏)の当主の真里谷信政の娘。
- 斯波義勝 : 武衛義勝とも呼ばれる。官職は修理大夫。斯波氏(奥州源氏)の当主の斯波高経[7]の曾孫、武衛義将、あるいはその弟の大野義種の孫、久義(孫左衛門)[8]・勝義父子の祖といわれる。
- 渋川義勝 : 官職は相模守。上野渋川氏(上野源氏)一門の渋川義昌の子で、正室は足利長尾家の当主の長尾憲長の娘。下野国小俣城の城主であった。
脚注[]
- ↑ 義秀・義綱の弟。
- ↑ 義直・義有・義基の父、氏義(義直の子)・頼有(義有の子)の祖父、頼久(氏義の子)・頼業(頼有の子)の曾祖父、元頼(頼久の子)の高祖父。
- ↑ 義尹の父、清尹の祖父、持尹の曾祖父、持長の高祖父、成長の6世の祖、政光の7世の祖、広長の8世の祖。丹波仁木氏の祖となった。
- ↑ 義貫の父。
- ↑ 第10代目将軍の足利義稙(義材(よしもと/よしえだ)/義尹とも、竹王丸の父)・実相院義円(義圓/義忠/義仲)・慈照院周嘉・今出川義純・照禅院了玄の父。
- ↑ 古河足利家(古河公方)の当主の足利高基(高氏/義基)の子、晴氏(藤氏・義氏・藤政・輝氏・家国の父、氏姫(徳源院)・秋氏(梅千代王丸)姉弟(義氏の子)の祖父)・高実・時氏(雲岳周陽)の弟、晴泰(大内五郎とも、泰秀(細萱太郎)の父、大内足利家の祖)の兄。
- ↑ 斯波宗氏の子、家光の弟、大崎家兼(時家)の兄、高水寺家長・末野氏経・氏頼・義将・大野義種の父。
- ↑ 『妙興寺文書』
関連項目[]
- 源義勝
- 柴田勝家