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足利氏の祖の足利義康像

足利 義康(あしかが よしやす、1117年(永久5年)? - 1157年7月7日(保元2年5月29日))とは、平安時代末期の武将。はじめは義保/義泰、通称は足利次郎/又太郎。官位は、従五位下後・陸奥守・大夫尉。足利陸奥判官とも称した。後に出家して道達入道と号した。

陽成源氏河内源氏)流足利氏下野源氏)の初代当主で、河内源氏の棟梁である八幡太郎義家の孫、義国の次子、生母は源有房村上源氏)の娘、新田義重の異母弟、矢田義清[1]梁田義長簗田義良)・義兼(義包)[2]義房(季邦)の父。

概要[]

義国の次嫡子のして、父から下野国足利荘(現在の栃木県足利市周辺)を相続して、当地名を名字とした。同時に父・義国の本領である上野国碓氷郡八幡郷(現在の群馬県高崎市八幡町)を相続し、庶宗家として分家した異母兄の義重は、父とともに上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を開墾して、新田氏上野源氏)の祖となる。義康は熱田大宮司・藤原範忠(藤原南家)の娘を娶り、同族である鎌倉義朝義頼)と相婿同士となり、密接な関係にあった。

1142年9月(康治元年10月)に、鳥羽法皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進したために、義康は下司職となった。久安年間[3]に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽法皇を護衛するに西面武士(北面武士)の隊長として仕えて、蔵人や検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。

1156年(保元元年)に、臨終前の鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した5名の武家貴族の中に義康の名も列ねてあった。鳥羽法皇崩御後に起こった同年の『保元の乱』では、同族の義朝とともに後白河天皇方として、味方である遠縁筋の平清盛の300騎と義朝の200騎に次ぐ100騎を従えて、天皇方主力として最北方にある近衛方面の守備を補った。乱後に、敵方の崇徳上皇方である清盛の同族である平家弘父子を捕虜にしてこれを処刑している。その戦功によって殿上人として昇殿を許され、従五位下・大夫尉に任官された。

翌年に病を得て、官職を辞職して出家して、「道達入道」と称したが、まもなく41歳で没したという。

脚注[]

  1. 山名氏(『尊卑分脈』にある足利氏の系譜より)・仁木氏細川氏の祖となる。
  2. 足利氏一門の今川氏駿河源氏)の当主の今川貞世(了俊入道)の『難太平記』によると、義兼は又従兄の源為朝の庶子と記されている。
  3. 1145年~1150年まで年間。

関連項目[]

先代:
源義国
足利氏初代当主
-
次代:
足利義康
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