
鎌倉家(丸に覗き菊)の家紋
鎌倉家(かまくらけ)は、鎌倉幕府の征夷大将軍に就任した皇族の家柄を指す。鎌倉宮家とも呼ばれる。この家格は臣籍降下したために、源氏と称した。同族に源姓五辻家(深草家)があった。
後嵯峨天皇の皇子の宗尊親王とその子の維康王(後嵯峨源氏)、後深草天皇(後嵯峨天皇の第1皇子)の皇子の久明親王とその子の守邦王(後深草源氏)らが執権の北条得宗家の要請で征夷大将軍(宮家将軍)に就任した。
概要[]
遠縁筋である陽成源氏(河内源氏)の直系の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、征夷大将軍でもある源実朝が甥の公暁(頼家の次子)によって鶴岡八幡宮の参拝の帰途に29歳で暗殺されると、公暁も処刑されたために陽成源氏の直系は断絶した。
そこで、実朝の外叔父である北条義時は、姉の政子(頼家・実朝の生母)とともに、後鳥羽上皇に上奏して、皇族将軍を提案したが北条得宗家を嫌った上皇によって拒否された。そこで、政子・義時姉弟は藤原北家流九条家一門である13歳の頼経を征夷大将軍として迎えた(鎌倉摂関家)。しかし、頼経は成長すると独自の政権運営を指向し、執権の北条得宗家に反抗的な態度を取ったために京に追放された。
その後、頼経の子の頼嗣が後を継ぐが、1252年に北条時頼らの奏請により、後嵯峨天皇の第1皇子(庶長子)である宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられ、頼嗣は将軍職を追われた。しかし、すでに幕府の権力は執権の地位にあった北条得宗家が保持していたため、将軍といえども名目となっていた。そのため、就任は10歳前半までに行ない、長じても20歳代までに将軍職を辞任して京都に戻されて、中務卿・式部卿などに任ぜられることが通例であった。ただし、最後の将軍であった守邦王は幕府滅亡のためもあってか京に戻れず鎌倉で出家している。
この背景には、執権である北条得宗家は中臣姓とも物部姓とも日下部姓などの後裔とされる伊豆国の一介の小豪族に過ぎない出自の低さから、将軍職に就くことはできなかったことが要因であった。
鎌倉幕府は朝廷の律令制度を巧妙に利用して成立した統治機構であった。幕府の政治機構である政所の開設は従三位以上の貴人に許される特権であり、政所の職員は朝廷から叙位を受け官吏としての処遇を受けた。幕府の統治を支えた守護地頭制や大犯三箇条も朝廷の勅許・勅命によるものであった。そのため、源氏将軍であれ摂関家将軍であれ、代々の将軍は位階が三位に達しない段階では政所を開設できず、また幕府の命令書も将軍が三位に昇るまでは袖判下文、三位以上となった段階で政所下文とその格式を採用することができた。宮将軍擁立以降の統治機構は政所となり、また、その命令書も政所下文となることが常となった。鎌倉幕府の法的な正当性が常時保たれることになった。親王の身分ともなれば、その命令書は令旨として法的な効果を有するものである。
後鳥羽上皇による『承久の乱』では鎌倉幕府の勝利に終わったものの、鎌倉幕府が朝廷より征夷大将軍としての任命を受けて成立している以上、朝敵とされれば政権としての正当性を失いかねず、皇室の外戚の家格である摂関家将軍は安定性を欠いていた。実際、頼経が傀儡であることを嫌い幕府の実権を北条得宗家から実験を奪取しようとしたことは、幕府の中心である北条得宗家が摂関家将軍に見切りをつける大きな要因となった。その点、宮家将軍は鎌倉幕府と朝廷を結びつける役割を果たし、幕府の存在自体を正当化させる上で非常に大きな意義を持った。
歴代当主[]
- 宗尊親王 : 後嵯峨天皇の第1皇子(庶長子)
- 維康王 : 宗尊親王の子、真覚(僧侶)の兄
- 久明親王 : 後深草天皇の皇子、正室は維康王の娘
- 守邦王 : 久明親王の子、煕明王・久良(ひさなが)王[1]・聖恵(僧侶)の兄
その他[]
『徳川実紀』によると、江戸時代前期の延宝8年(1680年)に江戸幕府の第4代目将軍の徳川家綱が嗣子なくして死去した後、大老の酒井忠清が次の将軍に有栖川家の当主の幸仁親王(後西天皇の第2皇子)を「宮家将軍」として迎えるよう提案したが、堀田正俊らの反対に遇い、実現しなかったとする宮家将軍の擁立説が記されている。
脚注[]
- ↑ 源宗明・宗久の父。