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(ずい)とは、中国の国家である。約2つの国がある。現在の湖北省随州市曾都区に属するという。

  1. 随 (春秋) : 姓は姫(姫姓)。(岐)の古公亶父(武成王)の孫で、季歴(平霊王)の少子で、西伯あるいは、岐侯昌(文王)・虢仲(東虢)・虢叔(西虢)の弟、潘季遜の兄の随叔を祖する藩屏国。春秋時代から、漢水付近にいる随の同族諸侯を滅ぼした南方の蛮族のに対して、離反を繰り返した。紀元前506年に属国扱いに憤慨した楚に宣戦布告し、同族の・蔡とともに、楚と同じく蛮族のと盟約して、楚と対峙した。戦国時代後期に楚によって滅ぼされた。
  2. : 旧称はトルコ系鮮卑拓跋部の西魏と同じくトルコ系匈奴俟汾部で鮮卑化した宇文部の北周の部将で、引き続き鮮卑化したモンゴル系柔然(蠕々/茹々)普六茹氏族[1]の酋長である楊禎の子の楊忠が北周から隋国公に封じられたことに始まる。しかし、楊忠の子である楊堅高祖文帝)が北周の皇族を皆殺しして[2]、「随」を建国したが、「随」は辵部(しんにょう、辶)の「走る」の意義が含まれ、短命王朝の可能性があるとして、「陏」あるいは「隋」と改称したという。

脚注[]

  1. トルコ諸語モンゴル語では「ブルス・カーン」(Burskhan)と発音され、「柳」(楊と同義語)を意味するという(アーサー・F・ライト著『隋代史』(布目潮ふう・中川努(訳)/法律文化社/1982年)64頁。また、中華民国の姚薇元の『北朝胡姓考』(中華書局/2007年)72~73頁では、楊氏(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹々(蠕々/柔然)の後裔とする)。
  2. 例外的に、北周の宗室の虞国公の宇文興(宇文韜(宇文泰の祖父)の異母兄の宇文阿頭の孫、宇文仲の子)・宇文洛(字は永洛)父子のみは許され、介国公の宇文裕(宇文洛の子)・宇文延(宇文裕の子)・宇文離惑と宇文遠惑兄弟(宇文延の子)・宇文庭立(宇文離惑の子)と、その末裔は代まで存続していた。

関連項目[]

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