項明の肖像
項明(こうめい、生没年不詳)は、古代中国の戦国時代末期の部将。楚の名門の項梁の子で、西楚覇王の項羽の従弟にあたる。
概要[]
紀元前209年に父と従兄の項羽が挙兵すると、おなじく従兄弟の項荘と従父の項伯(項纒)ら項氏一門とこれに従った。翌208年に父が定陶城で秦の章邯の襲撃によって、戦死を遂げると項荘らとともに項羽に従った。
紀元前204年に漢の劉邦が籠る滎陽城を包囲した項羽の命で、一時的に和睦の使者として劉邦のもとへ派遣された。項明一行を出迎えた劉邦の幕僚の張良・陳平らから、豪華なもてなしを受けた。しかし、項明は自身は項羽の使者であって、亜父の范増の使者ではないと、張良・陳平らに述べると、彼らは豪華な馳走を片付けて、粗末な料理を出されて、張良・陳平らはうやうやしく退出した。その後に劉邦と会見したが、劉邦は横柄な態度であったので、激怒した項明は引き返して、そのまま項羽に「范増は劉邦と内通している」と報告した[1]。
果たして、項羽は范増に対して猜疑心を抱いたため、それを察した范増は高齢を理由に引退した。范増は郷里の居巣に戻る前に背中に膿ができて、客死を遂げた。劉邦らの罠に嵌って事の真相を知った項羽は激怒して、一気に滎陽城を猛攻撃してこれを陥落させた。
その後の項明の消息は定かではないが、紀元前202年に項羽が烏江で自決を遂げると、劉邦に帰順して項伯・項它(項佗/項他)[2]・項襄ら項一門とともに劉姓を賜って、劉明と改称して列侯に封じられたようである。
『北魏書』島夷劉裕伝によると、宋漢(劉宋)の劉裕(高祖武帝)は項明、あるいは項伯(劉纏)と項它(劉它)・項襄(劉襄)の後裔とされているようである[3]。
通俗小説の『通俗漢楚軍談』によると、上記同様に項氏一門として登場して、項梁の命で、魏王咎を救援するために、3万の軍勢を率いて、秦の董翳と戦って有利に進んだが、章邯が派遣した三川郡の太守の李由[4]の援軍に衝突して、李由と一騎討ちして討ち取られる設定となっている。
脚注[]
関連項目[]
- 項羽