馬超(ばちょう、175年/176年 - 222年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は孟起、安平悼王の劉理[1]の岳父にあたる。干支は卯年。
戦国時代の趙の将軍の馬服君・趙奢・趙牧[2]父子、前漢の都尉の馬通[3]、後漢の伏波将軍の馬援(字は文淵)の6世孫で、同じく後漢の学者の馬融[4]・馬日磾[5]は同族である。
祖父は馬平[6]、伯父および叔父は馬粛[7][8]、父は馬騰[9]、弟は馬休・馬鉄、従弟は馬岱[10]。正室は楊氏、側室は董氏。子は馬秋・馬承、安平悼王の劉理夫人ら。義弟は董种[11]。 孫は馬謀[7][12]。
概要[]
扶風郡茂陵(房陵)県[13]の人。祖父の馬平は、威宗桓帝の時代に涼州の漢陽郡[14]蘭干県の尉[15]を務めたが、官職を辞すると、そのまま現地にとどまって、チベット系羌族の貴族の娘を娶り、父の馬騰を産んだ[16]。
馬騰は身の丈八尺[17]以上あり、容貌魁偉という堂々とした大男だったが、素直で賢く、仁義に厚い人物だったので、多くの士卒が彼のもとに集まって、勢力を拡大した。
186年、涼州刺史の耿鄙が不正行為をしたので、これに憤慨した領民の王国たちは、顔役の韓遂(韓約)とチベット系の羌や氐族と結託して辺章を擁立して反乱を起こしたので、朝廷は太尉の張温[18]を車騎将軍、 中郎将の董卓を破虜将軍として討伐させた。しかし、反乱軍は董卓らを撃退したため、窮地に陥った耿鄙は涼州の各太守たちに命じて義勇軍を応募した。馬超の父の馬騰がこれに応じたので、耿鄙は彼を従事に任命して、反乱軍を蹴散らした。 韓遂は辺章と王国を殺害して、降伏した。馬騰はこの功績で軍司馬となり、のちに馬騰は偏将軍に昇進した。数年後に耿鄙が部下に殺害されたため馬騰は韓遂の盟友となり、ともに長安を攻撃するが、左将軍・皇甫嵩の軍勢に撃退された。
192年、18歳になった馬超は馬騰・韓遂に従って、長安の郿塢県にいた董卓に帰順した。董卓は韓遂を鎮西将軍に任じて、涼州の金城郡を委ねさせ、また馬騰を征西将軍に任じて隴・汧に駐屯させた。 しかし同年4月に董卓が王允・呂布に暗殺され、その王允も董卓の部将の李傕と郭汜らに殺害され、呂布が董卓の首をもって南陽郡太守の袁術を頼って逃亡した。
李傕と郭汜は馬騰を征東将軍に任じた。あるとき馬騰は涼州に穀物が不足し、軍人の生活が窮乏したため、上奏して池陽県で穀物を得たいと述べたので、長平池の岸辺で駐屯して解決した。 しかし、李傕の部将の王承らは馬騰を目障りと思ってこれを攻撃した。このため三輔[19]の槐里県が混乱して、備えを怠った馬騰は益州牧の劉焉と結んで、劉焉の長男の中郎将・劉範と次男の治書御史・劉誕らと共謀して、 李傕・郭汜を壊滅を目論んでいたが、露見されて劉兄弟は殺害されて、馬騰・馬超父子は涼州に逃げ戻った。
以降の馬騰は韓遂と組んで利害関係を保ったが、ある事がきっかけで両人は仲違いし、激怒した韓遂は馬騰の側室と末子たちを皆殺しし、そのため争乱が絶えることはなかった。建安初年(197年ころ)に、曹操配下の司隷校尉 の鍾繇[20]は長安に赴任すると、涼州牧の韋端とともに計らって、張既を派遣して馬騰と韓遂の和平を仲介したため、両人の争いは収まった。
鍾繇は馬騰を召し出して、前将軍・仮節に任じ、槐里侯に封じて、槐里県に駐屯させた。馬騰はトルコ系の北の南匈奴と東北の鮮卑族に備えて、士人を優遇し民衆を安定させたので、彼は万民に慕われて三輔は秩序を保った。
203年、恩義を感じた馬騰は息子の馬超を鍾繇のもとに派遣させて、督軍従事に任命された。馬超は平陽県に籠城する袁尚[21]配下の郭援[22]と高幹[23]を討伐させた。 馬超の部将の龐悳[24]が郭援を討ち取り、馬超がその首を刎ねたので、このために高幹は降伏した。馬超はこの功績で涼州刺史・諌議大夫となった。
208年、馬騰は年老いたため、隠居をして洛陽付近に静かに暮らしたいと、曹操に上奏した。曹操はこれを認めて馬騰を衛尉に任命し、馬超の弟の馬休を奉車都尉、馬鉄を騎都尉に任じた。馬騰は一族郎党を率いて、 入朝して、曹操に謁見した。まもなく馬騰らは鄴県に住居したが、長男の馬超は涼州にとどまって偏将軍に任命された。
しかし、曹操は馬氏一門をはじめ涼州軍閥の勢力を恐れていたので、馬超と父の盟友だった韓遂との亀裂を生じさせる工作を行なった。これを危惧した馬超は韓遂に唆されて、211年に涼州軍閥の頭目の馬玩・侯選・程銀・楊秋 ・李堪・張黄・梁興・成宜らと連合を組んで、反乱を起こした。曹操は「待ってました!」とばかりに、十万軍を率いて涼州軍閥連合軍が迫った潼関まで進撃した。
ところが、蒲坂に駐屯した曹操は賈詡の策謀を採り入れて、かつて親交があった韓遂と馬上で対談を申し入れた。韓遂はこれに応じて、馬超を伴ってやって来た。曹操も後方に許褚率いる護衛軍とともに単騎でやって来た。 馬超は曹操の隙を狙って、討ち取ろうとしたが許褚が鋭く馬超を睨んでいたので、挫折した。やがて、馬超はもともと韓遂が自分の異母末弟を殺害した経緯もあったので、ひそかに韓遂を恨んでいた。この情報を得た賈詡は 「離間の策」を用いて、見事に馬超と韓遂の仲は引き裂かれて、韓遂が曹操側についたため馬超は北西の安定郡まで敗走した。
馬超は安定郡でチベット系羌と氐族を自分の傘下に置いて反撃を窺った。曹操も馬超を追撃して一気に壊滅を目論んだが、北方の烏桓族(トルコ系)が魏の雁門郡に侵入したため、母方の族弟・夏侯淵を涼州の都督に任じて、 自分は洛陽に引き揚げた。曹操が撤退する前に部将の楊阜が「馬超は前漢の淮陰侯の韓信・淮南王の黥布(英布)のような危険な人物で、羌氐の諸族を統率することに関しては狡猾なほど巧みです。いまのうちに備えるべきです」と進言した。
果たして楊阜の予見どおりに、212年、馬超は南下して涼州刺史の韋康[25]を殺害し冀城を拠点として、隴西郡の各県を攻略した。隴西郡のほとんどの官吏たちは馬超に呼応したため、馬超は自ら征西将軍・并州牧・涼州都督と称した。 かつて韋康の従事だった楊阜は同僚の姜叙・梁寛・趙衢・趙昂・尹奉らと共謀して、馬超を攻撃し正規の涼州都督の夏侯淵と連絡をとった。楊阜と姜叙は鹵城で籠城したが、楊阜の妻子と姜叙の老母が馬超によって殺害された。
しかし、その間に梁寛・趙衢・趙昂・尹奉らが馬超の留守を狙って冀城を占領したため、あわてた馬超は引き揚げて冀城を攻撃したが、陥落することはできなかった。まもなく馬超によって家族を殺された楊阜と姜叙が討って出て馬超を挟撃し、 さらに夏侯淵の軍勢がやってきたため、馬超は惨敗して漢中郡で漢寧王と自称した五斗米道の教祖の張魯を頼った。
同年夏5月、馬超の父・馬騰は息子の反乱のために微妙な立場になったので、曹操に不満を持つ後漢の黄門侍郎の黄奎[26]と共謀して曹操を討ち取る計画を立てたが、黄奎の下僕の苗沢(苗澤)が過失を犯した廉で激怒した主人の黄奎から死刑判決を受けたため、身の危険を感じた苗沢は曹操のもとに向かって、馬騰・黄奎らの反乱を密告した。曹操はこのことを予想していたので、馬騰と黄奎をはじめ、馬超の弟の馬休・馬鉄らの家族など一族郎党らを捕らえて皆殺しの刑に処した[27]。同時に涼州の金城郡に引き揚げた韓遂も部将の成何(字は公英[28])の進言で、娘婿の閻行[29]とともに再び反乱を起こしたので、曹操は鄴県で人質となっていた韓遂の息子と孫をはじめとする一族をも処刑した。
一方、張魯は馬超を気に入って、都講祭酒に任命して自分の娘を娶らせようとしたが、家臣の閻圃・楊松らが「身内を曹操に殺害されて平然としている馬超をどうして信用できましょうか?」と諌めたので、これを取り止めた。
かつて馬超が涼州を統轄したとき、側室の董氏の弟の董种が三輔に駐屯していた。その董种は馬超より先に張魯の食客になっていた。213年の正月に董种は義兄の馬超の年賀の祝いのために訪問したが、馬超は暗い顔をして 「わしの一族は曹操のために皆殺しの憂き目に遭った。どうしてふたりで新年祝いを楽しめようぞ!」と己の胸を激しく叩いて、その境遇を嘆き叫んだ[30]。
しばらくして、馬超は張魯に援軍を要請して、涼州奪還を目指したが、夏侯淵らがいろいろ手配を打って攻撃したので、馬超は止むなく撤退した。これが繰り返されたので、張魯の部将の楊伯[31]らは馬超を非難した。馬超は部将の龐悳と訣別して、 同時に側室の董氏と長男の馬秋を張魯の人質としたまま、北方の武都郡のチベット系氐族の一酋長の邸宅に移住して、翌214年夏5月に従弟の馬岱と龐柔[32]とともに蜀を平定した劉備に帰順した。まずは李恢とともに劉備の陣営に向かった。そこで、劉備自ら迎えに来たので、馬超はあまりのことに感激したという。
劉備は、馬超を平西将軍に任じて、荊州西部の当陽県臨祖[33]に駐屯させて、都亭侯に封じた。しかし215年、張魯が曹操に降伏すると、側室の董氏は閻圃に与えられて、長男の馬秋は曹操の命を受けた張魯が配下の楊松に命じて処刑された。龐悳は曹操の帰順してその部将となった。
216年ごろ、諸葛亮に疎まれた彭羕から謀反の話を持ちかけるが、流浪で苦労した馬超は押し黙ったままで丁重よく彭羕を引き取らせ、このことを諸葛亮に報告し、翌日に諸葛亮とともに劉備に「彭羕謀反の件」を上奏した[34]。
218年、馬超は呉蘭を副将として、雷同(雷銅)を副将とした張飛とともに下弁県に駐屯している曹洪[35]・曹休[36]、その部将の張郃らを攻撃した。しかし、魏と内通した氐族の頭目の強端(彊端)に撃退された。
219年、劉備が蜀王(漢中王)になると、馬超は左将軍・仮節に任命された。221年、劉備が漢の皇帝として即位すると、驃騎将軍・涼州牧に昇進し、斄郷侯に封じられた。同時に馬超の娘は安平悼王・劉理[37]の妻となった。
222年、馬超は重病となり、死の直前に呉討伐に親征している劉備に上疏して「わたくしの一族二百人余は曹孟徳(曹操)によって皆殺しにされて、その数は少なくなっております。ただ、従弟の岱(馬岱)が一族の柱石として在命しており、ただひとり生き残ったわが末子(馬承) を補佐し、衰退した馬家の祭祀を執り行なう存在として、陛下に全てを託する所存であります。あとは何も思い残すことはありません」と述べた内容だった。
まもなく馬超は逝去した。享年48。諡号は「威侯」である。末子の馬承がその後を継いだ。馬承は、劉備と呉氏(孝穆(繆)皇后)との間の娘を娶った[7]。
馬岱は従子の馬承を補佐しながら、諸葛亮のために働き、平北将軍まで昇り、陳倉侯に封じられた。234年に諸葛亮の逝去後に楊儀の命で、魏延父子を討ち取った。235年に、魏に討伐したが、魏の部将の牛金に敗れて撤退した[38]。
馬超は、自ら反乱を起こしたため父を見殺しした汚名を着せられた人物である。しかし、劉備に信頼されてその娘を安平悼王の劉理[39]に嫁がせて、縁戚関係になったのは後世の伊達政宗と徳川家康のような関係であろうか?!
脚注[]
- ↑ 劉備の子、あるいは孫(劉理の項を参照)。
- ↑ 趙括の異母弟。
- ↑ 爵位は重合侯、兄の馬何羅と弟の馬安成とともに世宗武帝暗殺未遂を起こしたため処刑された。
- ↑ 字は季長、馬援の次兄である中塁校尉の馬余(字は聖卿)の孫。馬援にはその他にも兄がおり、長兄は河南郡太守の馬況(字は長平/君平)・三兄の上郡太守の馬員(字は季主)がいた(『東観漢記』)。
- ↑ 字は翁叔、馬融の族子。
- ↑ 字は子碩、馬援の曾孫。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 『元本』(『元大徳九路本十七史』)、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
- ↑ 『蜀書』馬超伝では名は不詳、『三国志演義』では祖父の馬平の名となっている。
- ↑ 馬援の玄孫。
- ↑ 字は「伯瞻」(『陜西省扶風県郷土志』)。馬粛の子。
- ↑ 董氏の弟で、「隴西董氏」に属し董卓の遠縁筋という(『三輔決録』および『三輔決録注』)。
- ↑ 馬承と劉夫人(劉備と呉夫人との間の娘)との間の子。妻は劉禅の娘。
- ↑ 現在の陝西省咸陽市興平県
- ↑ 西晋以降は泰州・天水郡となる。
- ↑ あるいは丞の説もある。
- ↑ 『典略』
- ↑ 約178㎝
- ↑ 張勳の父、張允の祖父という。
- ↑ 長安の中心地にある。
- ↑ 鍾皓の曾孫、鍾迪の孫、鍾敷の従孫、鍾演(鍾進)の兄、鍾毓・鍾劭・鍾会兄弟の父。
- ↑ 袁紹の末子。
- ↑ 鍾繇の姉の子。
- ↑ 袁紹の同母姉の子。
- ↑ 「龐徳」とも呼ばれる。龐柔の従弟。
- ↑ 韋端の子。
- ↑ 字は宗文、黄琬の子、来敏の外甥。
- ↑ 『後漢書』孝献帝紀
- ↑ ただし『魏書』張既伝および盧弼の『三国志集解』が引く『張既伝集解』・『後漢書』戴就伝が引く『戴就伝集解』では、「複姓(二姓)の「成公」が正しく、諱は「英」である」と述べている。
- ↑ または閻艶、字は彦明。
- ↑ 『三輔決録』および『三輔決録注』
- ↑ 楊白とも、楊松の従弟にあたる。
- ↑ 龐悳の従兄。
- ↑ 現在の湖北省宜昌市当陽県
- ↑ 彭羕の項を参照のこと。
- ↑ 曹操の母方の族弟で、父方の族父にも当たる。
- ↑ 曹操の族子。
- ↑ 『蜀書』劉理伝では劉備の子だが、劉禅の同母兄の劉某(字は公仲、197年?~218年?)の子とする説もある。
- ↑ 馬岱の字は「伯瞻」で、諡は「武侯」という(『陝西省扶風県郷土志』)。
- ↑ 前述通り、劉備の子、あるいは孫(上記参照)。