魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。
- 魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微子比干の子、帝辛(紂王/季受)の従弟)が周(岐)の武王より封じられた。春秋時代の前661年に晋[1]の献公(詭諸)によって、周王室系の虢や耿とともに滅ぼされた。ちなみに微子衍こと仲衍(微子啓こと伯啓(孟開)の弟、紂王の次兄)の子である太公稽を祖とする宋とは同族である。
- 魏 (戦国) : 「畢魏」あるいは、「梁魏」とも呼ばれる。姓は姫。周の文王の庶子で、畢[2]を封じられた畢叔高を遠祖とする。彼の長男の楷伯は楷の始祖となり、分家したために、次男の畢仲が後を継いだ。その後裔の畢万が晋の献公に仕えて、上記の滅んだ魏を継承する形式で封じられて韓(晋の分家)と趙(嬴姓)とともに「三晋」のひとつとなり、戦国時代に「戦国七雄」のひとつとなった。現在の山西省西部から河南省北部を支配した。秦に滅ぼされて以降は、魏の甯陵君(寧陵君)である公子咎・公子豹兄弟が魏を再興したが、特に魏王豹の裏切り行為の繰り返しで、漢の劉邦によって滅ぼされた。
- 魏 (三国) : 三国時代に曹操が基盤を築いた王朝。臣下である晋の司馬氏によって滅ぼされた。「曹魏」とも呼ばれる。
- 冉魏 : 五胡十六国時代に漢族の武悼天王(平帝)の冉閔がトルコ系匈奴羌渠部羯の石氏の石趙を滅ぼして築いた。しかし、おなじトルコ系鮮卑慕容部の燕によって滅ぼされた。
- 翟魏 : 五胡十六国時代に中央アジアの康居(カザフステップ南部)にいたトルコ系丁零の酋長である翟遼が築いた国。しかし、上記の鮮卑慕容部の燕に滅ぼされた。
- 北魏 : 「代魏」とも呼ばれる。五胡十六国時代末期にモンゴル高原(ハルハステップ)にいた鮮卑拓跋部の酋長の拓跋珪が建国した。後に王室は漢風の「元姓」に改めて、最後には東魏・西魏に分裂した。しかし、東魏は北斉に西魏は北周によって滅ぼされた。
- 隋末に、漢化した武川鎮軍閥に属する八柱国出身の李密が建てた政権。唐の李淵(李渕/李渊)によって滅ぼされた。